
髙島野十郎《秋陽》
作品の概要と第一印象
《秋陽》は1967年頃、髙島野十郎が晩年に手がけた風景画である。画面には、傾いた秋の夕陽が描かれている。藪木立は逆光の強い照射を受けて黒々と沈み、草木の姿はシルエットのように溶け込みながら立ち上がる。その間に、白く光を受けて揺れるススキの穂が点在し、残照にかすかな輝きを放っている。画面全体は強烈な光と深い影との対比に支配され、夕刻という一日の終わりに訪れる、寂莫とした抒情を孕んでいる。
しかし、その情景は単なる叙景では終わらない。太陽を直視しようとした画家の執念が、画面全体を突き抜けている。光のまぶしさと影の暗さは、単なる自然の現象以上に、存在そのものを照らし出し、また覆い隠す二重の力を象徴している。そこに、髙島野十郎特有の精神性が見出される。
光と影の構造
本作の核心は、夕陽がもたらす「斜照」の劇的効果である。太陽は画面には直接描かれていないものの、その強い光は画面を支配し、藪木立を濃密なシルエットに変える。光があまりに強烈であるため、木々や草の細部はほとんど判別できない。輪郭は溶け合い、黒々とした塊となって沈む。この「沈黙の闇」は、太陽のまばゆさによって生じた逆光の産物であり、光と影が不可分の関係であることを示している。
一方、ススキの穂だけが例外的に光を受けて仄白く浮かび上がる。かすかな揺らぎの中に映える白は、死にゆく光の残響のようでもあり、闇の中に宿る希望の徴のようでもある。ここに生じる対比は、画面に単なる自然描写を超える寓意性を与えている。つまり《秋陽》は「夕陽が沈む瞬間の情景」であると同時に、「光と影が織りなす生と死の寓話」でもあるのだ。
色彩と画面の抒情性
髙島野十郎の風景画に特徴的なのは、鮮やかさを排した色調である。《秋陽》もまた、強烈な色彩の饗宴ではなく、むしろ抑制されたトーンの中で光の効果を際立たせている。藪木立の黒、秋の空の赤みを帯びた黄、そしてススキの穂の白。限られた色彩の対比が、夕刻の空気感を見事に伝える。
特筆すべきは、この抑制された色彩が決して貧困ではなく、むしろ多層的な響きを持っていることだ。黒はただの闇ではなく、光を吸収し、沈黙をたたえた深さを備える。空の赤みは、時間の経過と季節の移ろいをにじませ、鑑賞者の内面に感傷を呼び起こす。白いススキは、光の残響を受け止め、消えゆく光の儚さを象徴する。全体として画面は、色の少なさによって、かえって豊かな詩情を生み出している。
野十郎における「太陽」の主題
本作は、髙島野十郎が生涯をかけて描いた「太陽連作」の一つに位置づけられる。彼は太陽を直視し、そこに究極的な美と真理を見出そうとした画家であった。生涯繰り返し描いた《蝋燭》のシリーズが「小さな光」であるとすれば、太陽は「大いなる光」であり、自然と宇宙を貫く存在そのものであった。
《秋陽》において、太陽は直接には描かれない。画面外に沈みかけた夕陽の光が、木立を逆光にし、草の穂を照らすという間接的なかたちで表現される。しかしその不在こそが、太陽の絶対的な力を逆説的に際立たせる。姿を見せずとも、世界を覆い尽くす光と影の作用こそが、太陽の存在証明である。
このように髙島の太陽表現は、単なる自然の模写ではなく、「見ることの不可能性」と「存在の絶対性」とのせめぎ合いを映し出している。《秋陽》はその中でも、沈みゆく太陽の瞬間をとらえた作品として、きわめて象徴的な意味を担っている。
時間と季節の感覚
タイトルが示す「秋陽」は、季節と時間の二重の意味を孕んでいる。秋は一年の終わりに近づく季節であり、夕陽は一日の終わりを告げる現象である。両者は重なり合い、画面に「終焉の気配」を漂わせる。
しかし、この終焉は単なる虚無ではない。秋の夕景は、冷たさや寂しさをまといながらも、どこか清澄な美を感じさせる。陽の残光は、確かに失われつつあるが、その儚さゆえに心を打つ。《秋陽》は、こうした時間と季節の感覚を見事に凝縮している。鑑賞者は画面を通じて、一日の終わりと一年の終わりを同時に感じ取り、さらに人生の黄昏の寓意すら読み込むことになる。
画家の孤独と宗教性
1960年代後半、髙島野十郎はすでに孤高の生活を送っていた。世間的評価や画壇の動向に無関心で、千葉県柏の農村で、自給自足に近い生活を続けながら制作に打ち込んでいた。そこには世俗から切り離された、一種の宗教者に似た姿勢があった。
《秋陽》に漂う厳粛さも、この宗教的精神と深く結びついている。光と闇の対比は、善と悪、生と死、現世と彼岸といった二項対立の象徴にも読み解ける。だが髙島の筆致は、どちらか一方を断定することなく、両者を不可分のものとして描く。光は闇を生み、闇は光を引き立てる。その相互依存の構造は、存在の根源を凝視する画家の哲学を示している。
とりわけ夕陽の光は、世界を赤く染めながら消え去る。その儚さは、生命の有限性を想起させるが、同時に「終わりの美」を肯定するものでもある。髙島はそこに、「生と死を超えた真理」を見出していたのだろう。
表現の徹底と沈黙の力
髙島の画面は、技巧的な誇張や感情の爆発ではなく、むしろ沈黙の徹底によって力を放つ。藪木立の黒は声高に叫ぶことなく、ただ黙して光を受け止める。ススキの白は、ほんのわずかな光の変化を忠実に描き取りながら、鑑賞者に強烈な印象を残す。ここには、対象を凝視し続けることで到達する、独特の「静けさの美」がある。
この沈黙は、野十郎の他の作品にも通じる。蝋燭を描いた作品群もまた、静かな画面に一本の炎が灯るのみである。しかしその炎は、孤独と永遠を同時に表す象徴となった。《秋陽》における夕陽の残光も、同様に「沈黙の光」として、画面全体を支配している。
終焉の美と永遠の光
《秋陽》は、秋の夕景という何気ない自然の一瞬を描きながら、その背後に存在の根源的な問いを孕んでいる。光と影の不可分な関係、季節と時間の象徴性、そして沈黙の中に漂う宗教的な緊張。これらすべてが一枚の画布に凝縮され、鑑賞者に深い余韻を残す。
晩年の髙島野十郎は、孤独の中で自然を凝視し続けた。《秋陽》は、その凝視の果てに到達した「終わりの美」の結晶である。夕陽は沈み、光は消える。しかし、その消滅の瞬間にこそ、永遠の光が垣間見える。野十郎の筆は、その一瞬をとらえ、画面に封じ込めた。
こうして《秋陽》は、単なる風景画ではなく、画家の精神の証として私たちに迫ってくる。そこに映し出されるのは、秋の夕景を超えた、存在そのものの輝きと影である。
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