
髙島野十郎
《蝋燭》
光と闇のはざまに立ち上がる精神
孤高の画家とその象徴的モチーフ
髙島野十郎を語るとき、まず想起されるのは一本の蝋燭の絵である。小さな画面の中央に立つただ一本の蝋燭。その周囲には余計なものが描かれず、暗闇の中にただ炎が揺らめく。その簡潔な構成にもかかわらず、観者はそこに宗教的とも哲学的とも形容できる深い象徴性を見出し、強く心を揺さぶられる。
今回取り上げる作品は、大正時代(1912–26年)に描かれた現存最古の蝋燭図である。野十郎が蝋燭というモチーフに取り組み始めた端緒を示す作品であり、後年に繰り返し描かれる「蝋燭の絵」の出発点として極めて重要な意味を持つ。炎の描写には既にうねるような力強さが現れており、暗闇を背景に光が立ち上がるというドラマティックな構成は、この画家の芸術観を凝縮したものといえよう。
蝋燭の図像学――光の象徴として
蝋燭は古来、宗教的儀式や祭祀の中で重要な役割を担ってきた。キリスト教では祈りとともに灯され、仏教でも供養や法要の場に欠かせない。炎は「清浄」「無常」「霊性」の象徴として世界各地の文化に浸透している。
野十郎が選んだ一本の蝋燭は、したがって単なる日用品ではない。彼がそれを画面中央に据えるとき、それは光そのもの、あるいは精神の象徴として機能する。しかも周囲を描かず、ただ炎だけを闇に浮かび上がらせることで、その象徴性はいっそう強化される。蝋燭が何を照らしているのかは示されず、観者は暗闇の中に光だけを見つめることになる。そこに、解釈を観者に委ねる余白が生じ、作品は一種の宗教画のような神秘性を帯びる。
大正期の蝋燭――炎のうねり
本作は大正期に描かれた現存最古の《蝋燭》である。炎の描写に注目すると、その形は単なる写実にとどまらず、強い動勢を帯びている。炎は静止せず、絶えず揺れ、うねり、上昇する。そのリズムは生命の呼吸を思わせ、炎が単なる物質現象ではなく、精神の象徴として昇華されていることを示す。
また、暗い色調の中に炎が浮かび上がることで、光と闇の対比が際立つ。特に周囲に描かれた陽炎の表現は、炎の発する熱気と振動を視覚化し、画面全体を包み込むような効果を生み出している。この陽炎は後年の作品にも繰り返し現れ、《蝋燭》シリーズの重要な特徴となる。
この時期の野十郎は、表現主義的な強さを持つ炎のフォルムを描きながら、すでに「光と闇の哲学」を確立しつつあったといえる。
光と闇――野十郎の美学
野十郎の蝋燭図を理解する鍵は、「光と闇」の問題にある。光は闇によって際立ち、闇は光によって意味を持つ。野十郎が描く蝋燭は、常に闇の中に置かれる。そこでは背景は存在せず、空間を規定するものはただ光と闇の境界だけである。
この構図は、芸術家の世界観を如実に示している。野十郎にとって世界は単純化され、不要なものはすべて削ぎ落とされる。その上で、根源的な光と闇のせめぎ合いが画布に刻まれる。炎は生の象徴であり、闇は死や虚無を思わせる。しかし両者は対立するのではなく、互いに依存しあい、不可分の関係にある。この緊張関係こそが、《蝋燭》に観者を惹きつける力を与えている。
孤高の画家と宗教的精神
野十郎の生涯は、画壇から距離を置き、孤高の道を歩むものであった。彼は都会的な名声を拒み、農村で自給自足の生活を営みながら、ひたすら絵を描き続けた。その姿勢は修行僧にも喩えられる。蝋燭というモチーフは、そのような生き方を象徴的に物語っている。
炎は小さくとも、確かに闇を照らす。その姿は孤独な芸術家の自己像に重なる。観者の目に映るのは一本の蝋燭であるが、その背後には孤高の画家の精神が燃えているのである。
また、兄の影響で禅宗に親しんだ野十郎にとって、蝋燭は仏教的な象徴ともなり得た。蝋燭の炎は無常を示し、同時に悟りへと導く光でもある。野十郎の《蝋燭》は、宗教画でないにもかかわらず、深い宗教性を内包している。
同時代との比較
大正期、日本美術は印象派や後期印象派の影響を受け、光の表現が盛んに試みられていた。だがそれは多くの場合、自然風景や都市の情景を対象とした外面的な光の描写であった。対照的に、野十郎の蝋燭は、外界の写生ではなく、内面的・象徴的な光を描く。彼にとって光とは自然現象ではなく、精神の形象化であった。
同時代の西洋に目を向けると、ゴッホの星空やムンクの炎のように、光を精神の表現とする試みは存在する。しかし一本の蝋燭という単純なモチーフにすべてを託した野十郎のアプローチは、きわめて独創的である。ここには日本的宗教観と西洋的表現主義の交錯を見ることができる。
蝋燭の継続と深化
この大正期の作品以降、野十郎は生涯にわたって蝋燭を描き続けることになる。昭和期に入ると、炎の形態はより洗練され、揺らめきは静謐な直立へと変化していく。背景の闇もさらに深まり、光と闇の境界は一層厳粛な緊張を帯びるようになる。
その長い展開の中で、本作の位置は「原点」である。炎がうねり、周囲の陽炎が強調されるこの初期の表現は、野十郎が蝋燭というテーマを通じて探求しようとした問題――光の象徴性と精神の表現――をすでに明確に示している。
現代における意義
今日、我々がこの大正期の《蝋燭》を鑑賞するとき、そこに映し出されるのは単なる一片の炎ではない。暗闇を切り裂くその光は、孤独に抗い、精神を燃やし続ける人間の姿である。情報と光に満ちあふれた現代にあって、むしろこの「一本の蝋燭」の静けさは、より深い意味を帯びてくる。
野十郎は豪華な照明や劇的な舞台を求めず、ただ一筋の炎にすべてを託した。その極限の単純化は、現代において「本質を見つめよ」と訴えかける。闇の中に灯る小さな炎は、今もなお観者の胸に迫り、沈黙のうちに強烈な問いを投げかけている。
髙島野十郎の《蝋燭》は、生涯をかけて追い求められた象徴的モチーフであり、本作はその最初期の重要な作品である。炎のうねりと陽炎の表現、光と闇のドラマティックな対比は、青年期の野十郎が抱いた芸術的課題と精神的探求を端的に示している。
それは単なる静物画ではない。宗教的象徴としての炎、孤高の芸術家の自己像、光と闇の哲学。そのすべてが一本の蝋燭に凝縮されている。野十郎は流行や技巧に背を向け、精神の根源を描こうとした。その姿勢は今なお観者を魅了し続ける。
一本の蝋燭は小さい。しかし、その炎は闇を押しのけ、永遠に燃え続ける精神の光を象徴している。大正期に描かれたこの作品は、野十郎芸術の出発点にして、その全貌を予示する「精神の原画」と呼ぶにふさわしい。
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