【京の家・奈良の家】速水御舟ー東京国立近代美術館所蔵

「沈黙を編む家屋——速水御舟《京の家・奈良の家》の時間論」
静謐の構築と文化的記憶としての日本家屋

1920年代、日本画は伝統の持続と近代化への試行が複雑に絡み合い、画家たちはその境界線で新たな表現を模索していた。保守的な京都画壇と、革新的な再興日本美術院。その狭間で速水御舟(1894–1935)は、自身の審美眼と探究心によって、日本画の可能性を大きく更新した。わずか40年余りの生涯ながら、御舟が残した作品群には一貫して、見ること・描くことの本質を問い直す強度が宿っている。その中でも1927年作《京の家・奈良の家》は、画家の成熟が凝縮された重要作であり、都市風景を通して「時間そのもの」を描いた稀有な試みとして位置づけられる。

この作品に接したとき、まず立ち現れるのは、深い静けさである。ただしそれは単純な無音ではなく、周囲の雑音が限界までそぎ落とされたのちに立ち上がる「沈黙の構築」とも言える緊張感を帯びている。京都と奈良という古都に横たわる長大な歴史。その時間の厚みを背景に、ひとつの家屋が静々と佇むような、そんな感覚が画面全体を支配する。

【京の家・奈良の家】速水御舟ー東京国立近代美術館所蔵

京都の家は洗練された町家の端正さを湛え、奈良の家は素朴で古雅な建物として描かれる。御舟は真正面からではなく、わずかに角度をつけた視点でこれらを捉え、家屋と周囲の空気との関係性を繊細に浮かび上がらせる。透視図法を排し、日本画特有の平面的な構成を採用することで、繰り返される格子や瓦のリズムが装飾と構築を兼ね、見る者を静かに画面内部へと誘う。

御舟の絵画における素材への徹底した観察はよく知られている。《炎舞》の炎の揺らぎ、《名樹散椿》の花弁の質感など、触覚的リアリズムとも呼ぶべき精度は本作においても健在である。柱の節、雨風に晒された板壁の変色、細かな割れ。木材の一部始終が、驚くほど緻密な彩色と線描によって再現されている。それらは単なる写生ではなく、家屋の素材に宿る「時間の堆積」を描き出すための記述である。

光と影の表情も本作の大きな魅力である。格子の隙間から差し込む柔らかな光、庇がつくる淡い影。光が物質に触れて生まれる瞬間的な詩情を、御舟は静謐な色調のなかに閉じ込めている。その結果、家屋は静止した「物」ではなく、時間と光を受けて呼吸する「場」として現れる。

御舟にとって都市の風景は、単なる記録でも観光的視線の対象でもない。京都と奈良を象徴する寺社の華やかさも、季節の装いも描かれない。むしろ、日常の片隅にある家屋にこそ、都市の記憶が宿ると御舟は考えていた。家とは、無数の営みと感情の痕跡を溜め込む容器であり、同時に歴史の沈黙を抱える場所でもある。その視線は、消えゆく都市の風景に対する静かな挽歌であり、また同時にそこで生き続ける時間への賛歌でもあった。

1927年という制作年は、御舟が様式の越境を重ねながら日本画の未来を模索していた時期にあたる。しかしその身体は病に蝕まれつつあり、風景や静物を見つめる眼差しには、どこか死の予兆が影を落としている。それでも本作に漂う寂しさは、哀しみではなく、存在の継続を見つめる穏やかなまなざしだ。人影のない家屋は、むしろ「そこにあった時間」と「これからも在り続ける時間」を象徴している。

《京の家・奈良の家》は、美しい日本家屋を描いただけの作品ではない。それは、素材が記憶を語り、構図が哲学を示し、風景が時間そのものとなる地点を提示している。御舟は日本画の形式を拡張したが、それ以上に、絵画を通して「場と時間と人」の本質に肉薄した。近代日本画におけるこの静かな革新は、今日においてもなお鋭く、そして新しい。

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