【ベニスの港】髙島野十郎ー個人蔵

光の港に立つ孤独な眼差し

―髙島野十郎《ベニスの港》にみる「静謐なる出発点」―

 髙島野十郎(1890–1975)は、近代日本洋画史においてきわめて特異な位置を占める画家である。東京美術学校を経て帝展で入選を重ねながらも、早くに画壇との関係を絶ち、名声や世評から距離を置いた。彼の作品に通底するのは、外界の喧噪とは無縁の、沈黙と光に支配された世界である。代表作《蝋燭》《月》《睡蓮》などにおいて、野十郎は対象を極限まで見つめ、物の形が消滅するほどの凝視の果てに「光そのもの」を描こうとした。その核心的志向は、すでに1930年代初頭、彼がヨーロッパを遊学した時期に萌していたと考えられる。

 その証左となるのが、《ベニスの港》(昭和5–8年頃、個人蔵)である。1929年に渡欧した野十郎は、パリを拠点にフランス・イタリア・スペインを巡り歩いた。ヨーロッパ絵画の光と空気に直に触れた体験は、彼の視覚感覚を大きく変容させた。とりわけ、水と建築とが複雑に交錯するヴェネツィアの港は、彼の記憶の奥に深く刻まれたに違いない。この作品は、旅情的な風景画に留まらず、異郷の光景を通して画家自身の精神の在りかを問う、内面的な探求の結晶といえる。

 画面にはいくつかの小舟が点在し、その影と光が水面に柔らかく反射している。遠景には港湾の建築が控え、空と水面の境界はほとんど融け合っている。全体を覆うのは、深い静けさと薄明の空気。そこには賑やかな観光都市としてのヴェネツィアの姿はない。むしろ、すべての音が吸い込まれ、時間さえ停止したかのような静謐な世界が広がっている。

 18世紀のカナレットが都市の構築美と光のきらめきを克明に描いたのに対し、野十郎の筆致は対象を曖昧に包み込む。形態は輪郭を失い、水と空気の層の中で溶け出す。その曖昧さは、光を描くためにあえて「物の存在を消す」試みであり、後年の《月》や《蝋燭》へと連なる美学の萌芽である。つまり、彼にとって風景とは外界の再現ではなく、光の現れ方そのものを見つめる精神的行為であった。

 色彩の面でも、この作品は注目に値する。ヴェネツィアの華麗な赤煉瓦や碧い運河、黄金の夕映えはここには見られない。画面を支配するのは、白・灰・淡い青を基調とする静謐なパレットである。明るさを抑制することで、絵具の層が薄い霧のように広がり、空気そのものが光を孕んでいるような印象を与える。この抑えた色調こそ、野十郎の「光を内側から描く」姿勢の現れである。彼の関心は、華やかさではなく、光がどのように世界を包み込み、沈黙を生み出すかに向けられている。

 「港」というモティーフも象徴的である。港は、出発と帰還、外界と内界の境界であり、人と世界の交錯する場である。しかし野十郎の《ベニスの港》においては、船は動きを止め、人物は姿を見せない。そこに描かれているのは交流の場ではなく、停泊と静止の時間である。旅の只中であっても彼の視線は外ではなく内を向いていた。異国の地で立ち止まり、光と水の揺らぎに身を委ねるその姿勢は、まさに「孤高」の画家にふさわしい沈潜の瞬間である。 

渡欧期の野十郎は、印象派やセザンヌの影響を受けつつも、模倣には向かわなかった。印象派が瞬間のきらめきを追ったのに対し、野十郎は「光がすべてを曖昧にし、世界と自我の境を消す」瞬間に惹かれた。そこには宗教的ともいえる観照の態度が漂う。のちの《蝋燭》における炎の孤光、《月》における夜の静謐は、すでにこの《ベニスの港》に予兆として息づいているのである。

 形式面から見ても、この作品には後年の特徴が明確に現れている。まず、対象の簡略化――船や建物の形態は最小限にとどめられ、ほとんど光の中に溶解している。次に、抑制された色彩――装飾的要素を排し、単調に近い調子で統一された画面は、後の「闇の美学」の前段階をなす。そして何より、静謐な空気感――人物の不在と音のない世界が、野十郎作品に一貫する孤独な精神性をすでに示している。

 《ベニスの港》の意義は、単なる留学時代の習作にとどまらない。むしろ、野十郎が日本的孤絶へと至る以前に、西欧の光の中で見出した「沈黙の美」の原点である。黒田清輝や藤島武二らが華やかな異国情緒を描いたのに対し、野十郎はそこに「静けさ」を見た。その眼差しは、旅の果てに光そのものへ到達しようとする求道の過程を物語っている。

 異国の港に漂う淡い光。それは、外界の記憶であると同時に、野十郎自身の精神の風景でもあった。彼にとって光とは、世界を照らすものではなく、むしろ存在の根源を問うための媒介であった。《ベニスの港》は、光の画家がその道を歩み始めた静かな出発点であり、のちの孤高の作品群へとつながる、内なる「港」なのである。

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