【椿とリンゴ】髙島野十郎ー個人蔵

【椿とリンゴ】髙島野十郎ー個人蔵

髙島野十郎《椿とリンゴ》

光と静謐の萌芽

髙島野十郎は、その生涯と作品において日本近代洋画史の中でも特異な位置を占める画家である。彼は東京美術学校に学びながらも画壇との関係を深めることなく、やがて農村に身を寄せ、孤独な画業を全うした。生涯を通じて「蝋燭」や「月」といった光の主題を探究し続けたことから、今日では「光の画家」と称されることが多い。しかし、その孤高の芸術は、早い時期からすでに明確な萌芽を見せている。本稿で取り上げる《椿とリンゴ》(1918年制作、)は、彼が20代後半に描いた静物画であり、若き日の野十郎が対象を見据える視線の厳しさ、そして静謐な美を求める態度が凝縮されている。

本作は「大正期」という時代性も無視できない。日本洋画界では、白馬会や二科会といった団体が盛んに活動し、西洋印象派や後期印象派の受容を背景に、多彩な展開を見せていた。いわば「光の表現」に関して日本洋画が新しい地平を模索していた時代である。そうした潮流のなかで描かれた《椿とリンゴ》は、表面的には同時代の静物画と似た趣を持ちながら、内奥には野十郎ならではの孤独な凝視と、強烈な精神性が潜んでいる。

本作に描かれるのは、机の上に置かれた赤い椿の花と数個のリンゴである。モティーフの選択は一見するとありふれている。椿は日本的な花であり、リンゴは西洋果実として近代日本の生活に広まりつつあった食材である。両者の取り合わせには「東西の象徴」ともいえる意味が込められているように思われる。

画面構成は端正で、中央に椿の花器が配され、その周囲にリンゴが並ぶ。背景は簡潔で、余計な描写をほとんど含まない。そこには、対象を正面から凝視し、その本質を画布に定着させようとする画家の態度が明確に示されている。

本作で最も印象的なのは、赤の扱いである。椿の花弁の赤とリンゴの赤。その二つは同系色でありながら、質感も輝きも異なる。花の赤は柔らかく、内側から光を透かすような瑞々しさを帯びる。一方、リンゴの赤は堅牢で、果皮の厚みと重量感を伴っている。

この二種の赤は、画面の中で互いに呼応しつつも、微妙な差異を際立たせることで緊張関係を生んでいる。赤という色彩が持つ生命力と官能性が、ここでは単なる視覚的快楽を超え、存在の確かさを証するかのように響き合っている。

若き日の野十郎にとって、光の扱いはまだ単純である。しかし、その観察の精緻さにはすでに彼の将来を予見させるものがある。椿の花弁に反射する柔らかな光、リンゴの表面に宿る艶やかで硬質な光沢。画家はそれぞれの質感を丹念に描き分け、光が物体に宿る瞬間を画面上に再現している。

ここで注目すべきは、光が単に「明暗」をつくる要素ではなく、対象の存在感そのものを確証する働きを担っている点である。椿もリンゴも、光を受けてはじめて「そこにある」ことを強く主張する。野十郎の後年の蝋燭や月の作品においても、光が存在そのものを刻印するという姿勢は一貫しているが、その萌芽はすでにこの静物画に表れている。

静物画は、西洋絵画史において「生命のはかなさ」を象徴する寓意画として発展してきた。花や果実、器物などを並べて描くことで、豊饒さと同時に死の影を示唆する。大正期の日本においても、静物画は若き画家が腕を磨くためのジャンルであると同時に、精神的探求の場でもあった。

野十郎の《椿とリンゴ》は、その両義性をよく示している。対象の形態や質感を忠実に描き出そうとする写実的姿勢とともに、椿やリンゴの背後に潜む「生命の一瞬性」への眼差しが感じられるのである。特に椿は、日本文化において「落ち椿」として死の象徴とも結びつく花であり、ここに果実とともに描かれることには、若き画家の無意識的な象徴感覚が反映されているのではないか。

1918年、大正7年という時代は、第一次世界大戦が終結し、日本が国際的に大きな存在感を持ち始めた時期である。同時に、国内では都市化や消費文化が広がり、西洋的生活様式が浸透していった。リンゴという果実は、まさにそうした時代の象徴であり、近代日本の「日常」の中に入り込みつつあった。

一方、椿は古来より日本人に親しまれてきた花であり、茶道や文学にも深く結びついている。野十郎がこの二つを同じ画面に並べたことは、時代的には「西洋と日本」「近代と伝統」の対置を示唆しているように解釈できる。それは決して意図的なメッセージではなく、むしろ若き画家の無意識的な選択に表れた時代感覚の反映と見るべきだろう。

《椿とリンゴ》は、後年の野十郎を知る者にとっては、驚くほど「彼らしい」作品に見える。対象を厳しく見据える姿勢、光に対する執着、そして余計な要素を削ぎ落とす簡潔な構図。それらはすべて晩年の蝋燭や月の作品へと連なっていく。

同時に、この時期の作品には若さゆえの瑞々しさも残っている。晩年の作品に漂う宗教的な厳しさや孤独感に比べれば、《椿とリンゴ》にはむしろ生活の温もり、家庭的な親しみがある。そこにこそ、この作品の魅力があるともいえる。

野十郎は後年、信仰的とも形容できる態度で光を描き続けたが、その萌芽はこの静物にも見いだせる。椿とリンゴという組み合わせは、キリスト教的な象徴を連想させる。リンゴは聖書における「原罪」の象徴であり、椿は日本的な死の象徴である。この二つが並置されるとき、そこには生命と死、罪と救済といった普遍的テーマが暗示される可能性がある。

もちろん、若き日の野十郎がそこまで明確な宗教的意識を持っていたかは疑わしい。しかし、後年の作品群に通じる精神性の萌芽をここに読み取ることは決して牽強付会ではないだろう。

《椿とリンゴ》を前にすると、観者は不思議な静けさに包まれる。画面には動きも物語もない。しかし、花と果実の存在感があまりに強いために、観る者はそこから目を離せなくなる。時間が停滞し、物音が消え、ただ対象の存在そのものが観者を支配する。

この「静けさ」こそが、野十郎芸術の本質である。彼が蝋燭や月を描いたときも、同じように観者を沈黙へと誘った。《椿とリンゴ》は、その原点ともいえる作品なのである。

髙島野十郎《椿とリンゴ》は、若き日の静物画でありながら、すでに彼の芸術の核となる要素を備えている。光への執着、対象を凝視する姿勢、簡潔な構図、そして観者を沈黙へ導く静謐さ。それらはすべて、後年の孤高の作品群へとつながっていく。

椿とリンゴという日常的なモティーフは、東西の文化の交錯、生命と死の寓意、さらには宗教的象徴性までも孕んでいる。だが、それ以上に重要なのは、画家が「そこにあるもの」をひたすらに見つめ、画布に定着させたという事実である。その純粋な眼差しが、時代を超えて私たちに迫ってくる。

《椿とリンゴ》は、野十郎芸術の萌芽であると同時に、静物画というジャンルを通じて「存在とは何か」を問う一枚である。そこにこそ、この作品の普遍的価値がある。

まとめのポイント

《椿とリンゴ》は、赤い花と果実の対置を通して、光と存在の確かさを示す野十郎芸術の萌芽的作品である。

日常的モティーフを描きながら、東西文化の交錯や生命の寓意を内包し、観者を静謐な凝視へと誘う。

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