【水鏡】香月泰男ー東京国立近代美術館所蔵

【水鏡】香月泰男ー東京国立近代美術館所蔵

香月泰男の《水鏡》

満たされた青と空虚のあいだで

1942(昭和17)年に制作された香月泰男《水鏡》は、単純な写実画とも、単なる寓意画とも言い難い、不思議な静けさと深い余韻を湛えた作品である。画面には、壁にかけられたキャンバス(垂直の容器)と、それとほぼ形や大きさの一致する水槽(水平の容器)が描かれる。この二重の「容器」の中心にあるのは、深く満たされた青——水である。しかし、この水面は単なる物質的な描写を超えて、鑑賞者の視覚や感情を揺さぶる強い象徴性を帯びている。

香月は、そこで水面に映るはずの像をあえて具体的には描かない。少年が水鏡を覗き込んでいるにもかかわらず、私たちはその反映像を見ることができない。だからこそ、この「満たされた青」は、同時に「空虚」としても立ち現れる。そしてその空虚の中に、鑑賞者は自らの記憶や感情を投影してしまう。そこには、香月の個人的背景——幼少期に親と生き別れた孤独な経験——や、制作当時の戦争という歴史的現実が重ねられて読み取られる余地がある。

画面構造の第一の特徴は、垂直と水平の「容器」が二重化されている点である。壁にかけられたキャンバスは、油彩画の伝統的な物質性を象徴する。そしてその下に置かれた水槽は、液体を湛える物理的容器であるが、その矩形の形や寸法は、上方のキャンバスとほぼ一致している。この構造的な一致は、絵画という「イメージを受け取る平面」と、水面という「像を映す平面」とを、視覚的にも概念的にも重ね合わせる効果をもたらす。

つまり、画面の中でキャンバスと水槽は「垂直」と「水平」という空間的対立に置かれながらも、その形態的共鳴によって、互いに鏡像的な関係を結ぶ。水面がキャンバスの役割を果たし、逆にキャンバスが水鏡のように何かを映し出すかのような、役割の反転も示唆される。この入れ子構造こそが、作品の象徴的深度を支えている。

水槽を満たす深い青は、絵画的には豊かなコバルトブルーや群青を思わせるが、そこに具体的な像は映し出されない。少年の顔や姿は水面には描かれず、鑑賞者はその反映を想像するしかない。これは、香月の意図的な省略であると考えられる。なぜなら、映るべき像を欠いた水面は、鑑賞者の内面を映す「心理的鏡」へと変貌するからだ。

この青は、物質的には「満たされている」が、意味的には「空虚」である。満たされているからこそ、その中に私たちは何でも投影できる。静謐な水面は、記憶の断片や、未来への不安、失われたものへの追憶を吸い込み、そこに個人的物語を生み出す場となる。

画面に描かれる少年は、鑑賞者に背を向けている。その横に、枯れかけた植物が置かれている。この配置は、生命の盛衰を対比的に示す強い象徴である。生き生きとした成長期の少年と、枯死へと向かう植物——それは、生と死の時間軸上の両端を示すと同時に、戦争下の不安な時代の空気をも帯びている。

この構図を戦時下の文脈で読むならば、少年の背中は「未来世代」の象徴であり、その背中が鑑賞者に向けられていることは、未来への断絶や不透明さを意味しているとも言える。生命の象徴である少年が「私たちに顔を見せない」という事実は、希望が不安に覆われている状況を暗示する。そして植物の枯れゆく姿は、個人的な喪失体験だけでなく、国家規模での死と破壊をも象徴する。

香月泰男は山口県生まれ。幼少期に父を亡くし、後に母とも離れて暮らすことになった。その孤独な少年時代は、後年の作品にも深く影響を与えている。彼は東京美術学校(現・東京藝術大学)で学び、フランス絵画の影響を受けつつも、自らの内面風景を反映した独自の様式を模索した。戦中には従軍し、シベリア抑留も経験しているが、《水鏡》はそれ以前の制作でありながら、すでに彼の作品に見られる「静謐のなかの痛み」が顕著に現れている。

少年時代の孤独は、他者との距離感や「背を向ける」人物像というモチーフを生み出したのだろう。鑑賞者に顔を見せない登場人物は、香月作品に繰り返し登場し、その姿は「語られない物語」や「秘匿された感情」を象徴する。

1942年、日本はすでに太平洋戦争の渦中にあった。国内の美術界は戦意高揚や国策への協力が求められ、個人の内面的表現は抑制される傾向にあった。そうした中で、《水鏡》のような一見私的で静かな作品は、むしろ希少である。

しかし、この作品は単なる私的感傷ではない。容器に満たされた「青」は、もはや海原や空の色とも重なり、日本全体が戦争という巨大な水槽に沈んでいるかのような暗喩としても読むことができる。背を向ける少年は、未来を託されながらも、その未来を見通すことができない若い世代の象徴であり、枯れゆく植物は死の影を忍び寄らせる。この寓意は、直接的な戦争批判ではないが、時代の不安と個人の孤独を重ね合わせた詩的な告白である。

《水鏡》における「見えない反映像」は、鑑賞者を積極的に巻き込む装置として機能する。水面に映るべき像が省略されているため、鑑賞者は自らの像をそこに見ようとする。これは、物理的な反射の仕組みを利用した「自己投影」であると同時に、精神的な「感情移入」を促す。

画面は全体として極めて静かで、劇的な動きはない。水面はわずかな揺らぎすら感じさせず、時間が止まったかのようだ。しかし、その静寂の裏側には、少年の内面の動揺や、鑑賞者の感情のざわめきが潜んでいる。この「静と動」の二重構造は、香月の表現の核心であり、後年の《シベリア・シリーズ》にも通じる。

水槽の深い青は、色彩心理的には沈静と悲哀の感情を喚起する。これは海の深みや夜の静けさと同じく、安心と不安、開放と閉塞の両方を同時に感じさせる色である。香月は、この色を単なる写実としてではなく、心理的象徴として用いている。
日本の伝統において、水鏡はしばしば占いや予兆の象徴として登場する。澄んだ水面に未来や真実を映し出す——しかし、《水鏡》ではその像は描かれない。未来や真実は不可視であり、青の奥底に沈んでいる。この沈黙は、戦時下の不透明な未来を予感させると同時に、個人の運命の不可知性を示している。

香月の《水鏡》は、単なる少年像でも、静物画でもない。それは、容器・水面・色彩・人物配置が精密に組み合わされた「心理的構造物」であり、満たされながらも空虚であるという逆説的な状態を、視覚的に結晶させた作品である。

《水鏡》は、見る者を静かに立ち止まらせる。そこにあるのは満たされた青と、背を向ける少年、そして枯れかけた植物——しかし、その関係性は明示されない。ゆえに鑑賞者は、空虚の中に自分の物語を投影せざるを得ない。香月泰男は、この作品によって「満たされているのに欠けている」という人間存在の根源的状態を示したのだ。

その意味で、《水鏡》は1942年という時代の産物であると同時に、時代を超えて通用する普遍的な人間の心理の鏡でもある。青の奥底を覗き込むとき、そこに映るのは少年の顔ではなく、私たち自身の内面である。

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