【サン=トゥアンの風景】ジョルジュ・スーラーメトロポリタン美術館所蔵

【サン=トゥアンの風景】ジョルジュ・スーラーメトロポリタン美術館所蔵

静けさの誕生

ジョルジュ・スーラの作品《サン=トゥアンの風景》をめぐって

1878年あるいは1879年、パリの北にあるサン=トゥアンの地において、若きジョルジュ・スーラは一枚の小さな木製パネルに風景を描きとめた。それはのちに新印象主義の旗手として知られる彼にとって、最初期に属する風景画であり、今日私たちはこの作品を《サン=トゥアンの風景》と呼んでいる。現在、この油彩画はニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている。

この作品は、単にスーラのキャリアの出発点を示すだけでなく、彼の芸術思想がどのように芽生え、やがて点描という独自の技法へと結実していったのかを知る上で、非常に貴重な意味をもっている。

パリの北に位置するサン=トゥアンは、19世紀当時、都市化が進行する中にあってもなお、田園的風情を残していた郊外の町である。セーヌ川に近く、風景画家たちにとっては格好のモチーフを提供する地でもあった。若きスーラがこの地を訪れ、自然と対話しながら風景を描いたのは、アカデミー・デ・ボザール在学中のことだった。

サン=トゥアンは、当時の芸術家たちの間でも比較的よく知られたスケッチの地であり、親友であり画家仲間でもあったアマン=ジャンの証言によれば、スーラはこの作品を実際に現地で描いたという。このエピソードは、スーラが画家としての自我を芽生えさせ、単なる学生以上の視点をもって自然と向き合っていたことを示している。

《サン=トゥアンの風景》は、木製パネルに描かれた油彩画であり、その構成は驚くほどに素朴である。遠景には空と雲がひろがり、中景には並木か灌木のような自然のかたまりがあり、前景には土や草地が広がっている。描かれている対象はごく限られ、人物も建物もない。ただ自然だけがそこにあり、絵筆をとる画家のまなざしがそれを静かに見つめている。

特筆すべきは、その色彩と筆遣いである。スーラは、通常の油彩画に見られるような厚塗りや重ね塗りを施すのではなく、木製パネルの地を意識的に活かしている。具体的には、温かみのあるオレンジがかった茶色が画面全体に差し込まれているが、それは絵具による表現というよりも、下地である木の色がところどころ透けて見えているためである。

このような技法は、当時のアカデミックな油彩画からは逸脱したものであり、むしろ画家が自然の印象を即興的に捉えようとしたスケッチ的な態度を表している。スーラはのちに、徹底的な計算と理論にもとづいた点描技法へと移行するが、この作品では、むしろ即興性と感覚的な直観が前面に出ている。

この絵画にはもう一つの重要な側面がある。それは、かつてこの作品が「両面描き」のパネルだったことである。つまり、当初は一枚のパネルの両面に異なる作品が描かれていた。片面には《サン=トゥアンの風景》、そしてもう一方には、スーラが敬愛していたプヴィス・ド・シャヴァンヌの《貧しき漁夫》の模写を背景にした風景画が描かれていた。

このもう一方の面は、現在パリのオルセー美術館に所蔵されているが、20世紀半ばの1950年以降、二つの面は切り離され、別々の作品として独立して扱われるようになった。このことは、スーラの初期作品の保存状況の一端を物語るものであり、また一枚のパネルの両面に異なる意図で作品を描いていたスーラの制作姿勢を垣間見せてもくれる。

特に、プヴィス・ド・シャヴァンヌへの言及は注目に値する。シャヴァンヌは、19世紀後半において象徴主義的な壁画を多く手がけた画家であり、その静謐で崇高な画風は、若きスーラにとって強い精神的指標であった。スーラが彼の代表作のひとつである《貧しき漁夫》を模写し、その背景に風景を描いたという事実は、単なる模倣を越えて、構成と調和への関心の表れとして見ることができる。

スーラはこの《サン=トゥアンの風景》を描いた後も、多くの野外スケッチを重ね、やがて彼独自のスタイルである「点描(ディヴィジョニスム)」を確立していく。しかしその萌芽は、すでにこの作品に見られる。たとえば、色彩を面としてではなく、小さな筆致の集積として扱い、空気や光の移ろいを微細にとらえようとする姿勢は、すでに点描の精神的な前段階であるといえる。

また、人物を含まない純風景の構成も、スーラが一貫して抱いた自然への尊敬を反映している。彼にとって風景とは、単なる背景ではなく、ひとつの自律した存在であり、秩序ある形態と光の中に、自然の法則や美を見出すための対象であった。この作品の静けさと簡素さは、のちの《グランド・ジャット島の日曜日の午後》などに見られる構成主義的な画面の萌芽をも感じさせる。

当時、スーラはまだ20歳前後。アカデミーの教育を受けながらも、その枠に収まりきらない感性をすでに持ち始めていた。この作品が示すのは、いわば「スーラ以前のスーラ」である。そこには、完璧な点描法も、幾何学的構成もまだ存在しない。しかし、自然を冷静に見つめ、光と空気を絵画という形式に落とし込もうとする誠実な意志がある。

彼がこの作品で選んだ穏やかな色調、即興的でありながら秩序ある筆遣い、そして両面描きという方法にこめられた知的な遊び心。そのすべてが、のちのスーラが歩むことになる厳密で構築的な絵画への道のりを、予感させるものとなっている。
《サン=トゥアンの風景》は、サイズこそ小さく、主題も控えめである。しかしこの絵には、ジョルジュ・スーラという芸術家の出発点、あるいは「静けさの源」が刻まれている。それは、新印象主義という大きな潮流の種子であり、また絵画における秩序と調和を追求する姿勢の萌芽でもある。

この作品を前にしたとき、私たちは大きな歴史的作品の前に立つような圧倒される感覚よりも、むしろ一人の若者がひとつの風景を誠実に見つめたという、静かなまなざしの余韻を感じ取ることができる。そのまなざしは、世紀を越えて、いまなお私たちに語りかけてくる。「絵を描くとは、世界を観察し、静かに敬意をもってそれを描きとめることなのだ」と。

https://www.metmuseum.org/art/collect…

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