過去の記事一覧
-
湿潤の光と近代のまなざし―黒田清輝《横浜本牧の景》にみる外光と風土の交感―
明治という時代の光は、単に太陽の光ではなかった。それは「近代」という名のまなざしの光でもあり、黒田清輝の《横浜本牧の景》(1894年)は…
-
「湿潤の光、生成する風景――黒田清輝《大磯》にみる外光と日本の呼吸」
明治三〇年(一八九七年)に描かれた黒田清輝《大磯》は、単なる小品風景としてではなく、外光派の理念を日本の大気と感性に根づかせようとする試行の場…
-
《昼寝》―陽光のゆらめきと、眠る身体の近代―
黒田清輝《昼寝》(1894年)は、一人の女性が草むらに身を横たえ、夏の陽光に包まれて眠る姿を描いた小品である。しかし、その静謐な情景の背後には、明治という時代が初め…
-
秋の光に沈む人影——黒田清輝《栗拾い》にみる静けさの近代労働と自然、そして晩年の眼差しが描く「日本の近代洋画」の到達点
秋の午後の光は、あらゆるものの輪郭をやわらげる。《栗拾い》の画面を前にしたとき、まず感じる…
-
光を食む果実――黒田清輝《葡萄》に見る近代日本洋画の内なる呼吸――
静物の卓上に並ぶ果実ほど、沈黙のうちに語るものはない。黒田清輝の《葡萄》は、まさにその沈黙の極点にある。そこには風景の開放も、人物の物語もない…
-
豊かな空と雲の下に―黒田清輝《案山子》をめぐって―
澄みわたる秋の空の下、一本の木の棒に衣をまとわせただけの案山子が、ひとり風に揺れている。黒田清輝《案山子》(1920年)は、そんな何気ない光景をとらえた小さな…
-
山の女、光の女―土田麦僊《大原女》にみる美と労働のあわい―
山里から都へと薪を運ぶ女。その姿は、古くから京都人の記憶に刻まれた風景の一部である。大原の女たちは、頭上に束ねた薪を載せ、白い手拭いを頬に掛け、静かに…
-
南の光の中の女 ―土田麦僊《島の女》に見る原像のまなざし―
灼けつく陽光の下、ひとりの女が立っている。海の色は深く、空気は湿りを含みながら透き通っている。彼女の肌は褐色に輝き、巻かれた布が風に揺れる。その姿には…
-
光の都市ヴェネツィア―ターナーが見た幻視の水上風景―
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの《ヴェネツィア―サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会のポーチから》は、単なる風景画ではない。それは、水と光のあいだ…
-
光の詩人、日常の岸辺にて
ターナー《コーンウォール、ソルタッシュの渡し船》をめぐる印象
ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの絵画の前に立つとき、私たちはいつも「光」の中へと導かれる。だがそれは単に自…
PAGE NAVI
- «
- 1
- 2
- 3
- 4
- 5
- 6
- 7
- 8
- …
- 891
- »
ピックアップ記事
-
室町時代に作られた「鬼桶水指」は、信楽焼として知られる天然灰釉(しがらきやき)の焼き物です。
…
-
平安時代の「大将軍神像」は、彩色の痕跡が残る木製の像です。
この像は、平安時代に作られたもの…
-
「ガラスオイノコエ」は、紀元前4世紀中期から紀元前3世紀初頭にヘレニスティック時代の古代ギリシャで…
ページ上部へ戻る
Copyright © 【電子版】jin11-美術史 All rights reserved.
最近のコメント