過去の記事一覧
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赤き果実の光──髙島野十郎《からすうり》にみる孤独と生成の美学
ひとつの果実が、これほどまでに深い精神の光を放つことがあるだろうか。髙島野十郎の《からすうり》(1935年)は、画家が生涯をかけて見つめ続けた「光…
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銀の器、沈黙の光――髙島野十郎《ティーポットのある静物》をめぐって――
ひとつのティーポットが、これほどまでに深い沈黙を語ることがあるだろうか。髙島野十郎の《ティーポットのある静物》は、単なる器物の描写を超え、…
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雨のヴェールの中の永遠——髙島野十郎《雨 法隆寺塔》をめぐって
雨の降る風景を描いた絵画ほど、静かに人の心を揺らすものはない。そこには劇的な光や明暗の対比はなく、ただ絶え間なく流れ落ちる線が世界を包み込む。その中…
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割れた光の静物
―髙島野十郎《割れた皿》をめぐる沈黙の思索―
髙島野十郎の《割れた皿》を前にすると、まず訪れるのは「音のない崩壊」の感覚である。そこには劇的な破壊の瞬間も、感情の爆発もない。あるのは、ただ…
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「優雅なる結合の肖像――ジョン・シングルトン・コープリー《ラルフ・アイザード夫妻》にみる植民地アメリカの夢想」
18世紀後半、アメリカがまだ独立以前の植民地社会であった頃、ジョン・シングルトン・コープリーの筆は…
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「光の玉座に座す亡命の王妃――ホントホルスト《冬の女王の勝利:正義の寓意》にみる祈りと幻影」失われた王冠をめぐる記憶と救済の美学
ヘリット・ファン・ホントホルストの《冬の女王の勝利:正義の寓意》(1636年、ボ…
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「氷の河を越えて――トマス・サリー《デラウェアの通過》に見るアメリカ的英雄像の原型」国民的記憶と美術的神話のあわいに
トマス・サリーの《デラウェアの通過》(1819年、ボストン美術館蔵)を前にすると、我々はまず…
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光の中の予兆——コープリー《ジョン・ハンコック肖像》にみる植民地アメリカの自画像理性と富のあいだに立ち上がる「新世界の肖像」
18世紀半ばのボストン、まだ「アメリカ合衆国」という名が存在しなかった時代に、ジョン・…
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光の中の思索――コープリー《メアリー・オーティス・ウォーレン肖像》をめぐって
ジョン・シングルトン・コープリーの《メアリー・オーティス・ウォーレン肖像》(1763年)を前にすると、まず目を奪われるのは、その静け…
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光沢の奥に潜む静謐――ジョン・シングルトン・コープリー《アン・ティング(トーマス・スメルト夫人)》にみる植民地肖像画の精神若き画家が描いた「品位」と「存在」のはざま
18世紀半ばのアメリカ、まだ独立の理念も萌芽に…
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