
作品「洋梨とブドウ」
高島野十郎の静物画にみる孤高の眼差し
孤独の画家とその静物
昭和期の洋画家、高島野十郎は、しばしば「孤高の画家」と形容される。その理由は彼の生涯そのものにある。東京帝国大学農学部を卒業後、官僚としての安定した道を捨てて画家となり、展覧会や流派といった美術界の制度的な場にほとんど身を置かなかった。彼の作品は、同時代の画壇で流行したモダニズムや新興美術の潮流と交差することなく、徹底して個人的な視線に基づいて描かれている。その徹底ぶりは、彼の代表的な「蝋燭」連作に端的に現れているが、果物を題材とした静物画においても同様である。
本稿で取り上げる《洋梨とブドウ》は、そうした彼の作品群の中でも、特に静物というジャンルを通して彼の絵画観の核心を伝えてくれる一点である。日常的な果物を描きながらも、その造形感覚、光の扱い、背景の選択には、画家の精神性が深く刻み込まれている。
西洋絵画において果物の静物は、長い伝統を持つジャンルである。カラヴァッジョの《果物籠》に始まり、17世紀オランダの静物画家たち、さらにはセザンヌの多くの静物に至るまで、果物は常に「生の象徴」であると同時に「移ろいの暗示」として描かれてきた。腐敗や熟成の過程を示す果実は、人間の生と死、時間の流れを視覚化する格好の題材であった。
高島がこの伝統に直接触れていたかどうかは明らかではない。しかし、彼が西洋画法を学び、その技術を基盤に独自の表現を追求したことを考えれば、静物画の系譜に対する暗黙の意識は無視できないだろう。
《洋梨とブドウ》において、画面中央には瑞々しい洋梨が置かれ、その周囲に数房の葡萄が散らされている。洋梨は黄緑から黄金色にかけて微妙に変化する色彩を帯び、その表皮のざらつきや斑点が丹念に描写されている。一方で葡萄は濃紫色を主体とし、光を受けて半透明に輝く粒と、影の中に沈む粒とが交錯している。
注目すべきは、この構図が決して「盛り付けられた果物の美しさ」を狙ったものではなく、むしろ静謐な緊張感を孕んでいる点である。果物たちは簡素な台の上に置かれ、背景はほとんど装飾性を欠いた暗調の面で処理されている。結果として、果物は外界から切り離され、孤立した存在として強く浮かび上がる。
高島の作品を語る際に欠かせないのは、彼の「蝋燭画」との関連である。暗闇の中に灯る一本の蝋燭を描いた連作は、彼の代名詞ともいえる作品群であるが、《洋梨とブドウ》にもその系譜は感じ取れる。
本作では蝋燭そのものは登場しない。しかし、暗い背景から果物だけを浮かび上がらせる光の扱いは、蝋燭画に見られる「孤独な光」の精神性を引き継いでいる。光は決して拡散的ではなく、局所的に対象を照らし出す。そのため、果物の立体感は浮き彫りになりつつも、背景は沈黙を守り続ける。
昭和16年という制作年は、日本が太平洋戦争に突入した時期にあたる。戦時体制下において、多くの画家が戦争画を描き、国家的イデオロギーに奉仕する方向へと傾いた。その中で、高島は戦争画に与することなく、黙々と静物や風景を描き続けた。その姿勢は、単なる「画壇からの孤立」ではなく、時代状況に対する無言の抵抗とも読み取れる。
果物を描くという行為は、一見すれば戦時下の現実から遊離した無意味な営為に見えるかもしれない。しかし、《洋梨とブドウ》に込められた緊張感は、むしろその逆を示している。国家的プロパガンダの大音声とは無縁に、画家は果物という小さな存在を凝視することで、生命の重さと存在の厳粛さを見つめ続けたのである。この作品に漂う沈黙は、戦時下の喧噪に対する画家の応答の仕方であったと考えられる。
技法的にみると、高島は油彩を用いながらも、絵具の厚塗りを避け、比較的平滑で緻密な筆触を選んでいる。その結果、果物の表皮は質感を強調しすぎることなく、光を受けた部分と影の部分との対比によって自然に浮かび上がる。
色彩は抑制され、決して華やかではない。洋梨の黄緑から黄土にかけての落ち着いたトーン、葡萄の深い紫と青黒、そして背景の漆黒に近い暗調が、画面全体を静かに統一している。だがその抑制の中にこそ、観る者の眼は果物の存在感を強く意識する。色彩は対象を飾るのではなく、むしろ対象の「裸の姿」を露呈させる役割を果たしているのだ。
これは印象派的な色彩のきらめきとは正反対であり、またセザンヌ的な構造分析とも異なる。高島にとって色彩は、世界の現象を美しく見せるための装置ではなく、対象を凝視したときに立ち現れる「存在の痕跡」なのである。
《洋梨とブドウ》を前にすると、観者は奇妙な感覚に包まれる。それは「美味しそうだ」「瑞々しい」といった生理的な感覚を超えて、果物の前に立たされたときの沈黙と対峙する感覚である。高島の筆は、果物を単なる対象物として描くのではなく、観者に「見ること」と「見られること」の緊張を強いる。
果物は無言のままこちらを見返しているかのようであり、その無言の視線に耐えることが、観者にとっての作品体験となる。この緊張感こそが、高島の静物画を特異なものにしている。彼の果物画は、食卓の悦楽を描くのではなく、存在の沈黙と対峙させる「精神の静物」なのである。
日本の近代洋画において静物画は、黒田清輝以来のアカデミックな題材でありつつ、藤島武二や安井曾太郎らの手によって、装飾性や生活感覚の中で発展していった。その一方で高島の静物は、これらの潮流から孤立している。彼の画面には洗練された生活感や都市的モダニティはなく、むしろ厳格な宗教画のような緊張が漂っている。
この意味で、《洋梨とブドウ》は日本近代洋画の中でも特異な位置を占める。西洋伝統の静物画を参照しながらも、時代の潮流に回収されることなく、孤立したまま自己の精神性を刻印した作品だからである。その孤立性は、今日の眼から見れば、むしろ日本近代美術の多様性を照らし出す要素となっている。
《洋梨とブドウ》は、一見すれば小さな静物画に過ぎない。しかしその内部には、画家高島野十郎の世界観が凝縮されている。果物を描くことは、単なる写生ではなく、存在そのものを凝視し、光と影の中に浮かび上がらせる営みであった。
戦時下の喧噪のただなかで、彼は果物の沈黙を描くことで、時代に抗する静かな声を響かせた。そこには孤立と沈黙を恐れない画家の姿がある。観者は、この画面を前にしたとき、果物という小さな存在を通して、人間の生の重さと孤独、そして光に照らし出される「存在の厳粛さ」に触れるのである。
《洋梨とブドウ》は、そうした意味において、単なる静物画を超えた「存在の証言」として、今なお観る者の心を深く揺さぶり続けている。
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