
髙島野十郎
《秋の花々》
光と孤高の静物詩
《秋の花々》は、髙島野十郎が1953年(昭和28年)に描いた静物画である。戦後間もない混乱の只中から少しずつ社会が立ち直りつつあった時期、野十郎は東京を離れ、郷里福岡を拠点に孤独な制作を続けていた。本作はその時期に生まれた数少ない花の絵のひとつであり、野十郎が静物画というジャンルを通じて、自然の生気と光の永遠性を追究したことを物語る重要な作品である。
画面には、秋の野に咲く花々が花瓶に活けられ、整然とした構図で描かれている。菊やコスモス、野菊など、秋を代表する花々が一堂に集められ、その多様な色彩と形態が調和をなしながらも、どこか寂寥感を帯びている。第一印象として強く迫ってくるのは、明るい花の彩りにもかかわらず漂う静謐さである。花瓶に活けられた花々は、生気を発していると同時に、すでに萎れ始める予兆を孕んでいる。その「生と死」の微妙な境界に立ち会う感覚が、鑑賞者の心を捉える。
野十郎といえば、まず「光の画家」としてのイメージが強い。彼の代表作である《蝋燭》や《満月》《太陽》などは、光そのものを描き出す稀有な表現であり、孤高の画業を象徴する。しかし、その一方で、彼は生涯にわたって静物画にも力を注いだ。果物、器、そして花。これらは表面的には穏やかな題材であるが、彼にとっては「光を受け止めるもの」「存在の本質を映すもの」として重要な意味を持っていた。
とりわけ花の絵は、野十郎の絵画観を知る上で示唆的である。花は短命であり、咲いては散る存在だが、その瞬間に強烈な美を放つ。野十郎はそこに「永遠と刹那」の二律背反を見る。つまり花を描くことは、彼にとって「存在のはかなさ」と「光による永遠化」とを同時に捉える行為であった。《秋の花々》は、そうした彼の精神がもっとも明瞭に結晶した作品のひとつだといえる。
本作の特徴のひとつは、色彩の緻密な調和である。画面には紅や紫、黄、白といった花々の色が点在するが、それらは決して派手に主張せず、むしろ落ち着いたトーンに抑えられている。特に紫や深紅の花は、背景の暗色と響き合い、秋の深まりを思わせる重厚さを醸し出す。
構図においても、野十郎は独自の均衡感覚を発揮している。花瓶を中心に据えながらも、花々は不規則に伸び、自然な揺らぎを見せる。そのため、画面全体は「整然」と「無秩序」の間で絶妙なバランスを保っている。この構図の妙によって、鑑賞者はまるで野に咲く花をそのまま切り取ったかのような生々しさを感じる。
野十郎が生涯探求したのは「光」であった。《秋の花々》においても、その光の表現は静かだが強い。花びらの一枚一枚、茎の細部にまで光が行き渡り、対象の輪郭を柔らかく浮かび上がらせる。その光は正午の明るさではなく、午後の傾いた日差しのように、どこか陰影を帯びている。
この光の質感は、秋という季節の時間感覚を見事に映し出している。春や夏の花は鮮烈な光に照らされて生命力を誇示するが、秋の花は静かに咲き、すでに冬の訪れを予感させる。《秋の花々》の画面には、光とともに「時の移ろい」が刻まれている。そこには、画家自身が中年期を迎え、人生の秋を意識していた心境が反映されているとも考えられる。
《秋の花々》を見ていると、野十郎の孤独な生涯が重なってくる。彼は画壇との関わりを避け、評価や名声からも距離を置いた。農村のなかで、自給自足に近い生活を送りながら、ただ描くことに全てを捧げた。その姿は孤独であり、時に「異端」とも見なされた。しかし、彼が描いた花々は、その孤独の中でなお普遍的な輝きを放つ。
花瓶の花は誰かに見せるために活けられたものではない。むしろ、自分自身のために置かれたものだろう。だがその「自分のための花」が、結果として普遍的な美に昇華している。この逆説こそが野十郎芸術の核心であり、《秋の花々》はその典型例である。
花を主題とした静物画といえば、まず西洋絵画の伝統が想起される。オランダのバロック期に描かれた花の静物画は、豪華な花々の盛り合わせを通じて「ヴァニタス(虚栄)」を象徴した。ルノワールやセザンヌもまた花を描き、それぞれの色彩理論や造形観をそこに反映させた。
しかし野十郎の《秋の花々》は、それらとは異なる。彼の花は豪華さを誇ることもなければ、理論的な造形実験のための素材でもない。むしろ素朴で、どこにでも咲く秋の花々である。だが、その素朴さの中に深い精神性を見出す点で、彼の静物画は唯一無二の地位を占めている。西洋絵画がしばしば「見せるための花」であったのに対し、野十郎の花は「生きるための花」であったといえる。
花は、時間の象徴である。咲いては散る、移ろいゆく存在である。《秋の花々》において描かれた花々もまた、その宿命から逃れられない。絵画として定着された瞬間の輝きは、同時に滅びゆく予兆を孕んでいる。そこに「存在の有限性」と「芸術による永遠化」という二重性がある。
また、秋という季節そのものが「終わり」と「始まり」の境界にある。実りの季節であると同時に、冬への入口でもある。その二重性が、花々の静謐な輝きと結びつき、鑑賞者に深い感慨をもたらす。
実際に《秋の花々》を前にすると、鑑賞者は不思議な「沈黙の声」を聞くことになる。鮮やかな色彩にもかかわらず、画面は静かであり、声高に何かを訴えることはない。しかしその沈黙の中に、見る者は自らの記憶や感情を重ね合わせる。かつての秋の日、庭に咲いていた花、あるいは誰かが活けてくれた一輪の花。その個人的な記憶と、画面の普遍的な静けさが響き合い、鑑賞体験を深いものにする。
《秋の花々》は、一見すれば素朴な花の静物画である。しかしその内実は、光と時間、孤独と普遍、生と死という根源的なテーマを秘めている。秋の花を描くことを通じて、野十郎は「存在の有限性」と「芸術による永遠化」の両立を試みた。
それはまた、彼自身の生の姿勢をも映し出している。世俗的な評価から離れ、ただ「描く」という行為を積み重ねることで到達した境地。そこに見えるのは、孤独の果てに開かれる普遍性である。
《秋の花々》は、野十郎の画業の中でも特に静謐で、しかし深く人の心を打つ作品である。秋の花々が放つ控えめな輝きは、私たちに「生きるとは何か」「美とは何か」を静かに問いかけている。その問いは、時代を超えてなお、鑑賞者の胸に降り積もるだろう。
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