【満月】髙島野十郎-東京大学医科学研究所所蔵
- 2025/8/29
- 日本美術
- 東京大学医科学研究所, 髙島野十郎
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髙島野十郎の《満月》
光の孤高なる凝視
髙島野十郎は、近代日本洋画史において極めて特異な位置を占める画家である。その孤高な生涯、俗世を離れた生活態度、そして何より「光」への執念に似た探究によって、彼の作品は単なる写実や印象派的表現を超えて、観る者に宗教的とも形容できる体験を強いる。野十郎の代表的なモティーフといえば「蝋燭」や「月」であるが、本稿で取り上げる《満月》(1963年頃)は、彼が晩年に繰り返し描いた「月」の主題のなかでも、特に凝縮された精神性を湛える一枚である。
本作は東京大学医科学研究所に所蔵されており、野十郎作品の中でも研究機関に収蔵されるという点で象徴的である。美術館ではなく学術的な場に置かれていること自体が、彼の絵画が単なる芸術作品にとどまらず、ある種の「現象の記録」「光学的・精神的探求の証」としての性格を帯びていることを物語っている。
画面に描かれるのは、ほとんど余計な要素をもたぬ夜空と、そこに浮かぶ満月である。画面の大部分を覆うのは黒に近い濃紺の空であり、その中央付近に、白とも銀色ともつかぬ光の円盤が浮かぶ。満月は決して単調な白円ではなく、周縁はかすかに揺らぎ、内部には薄い陰影や光の層が描き込まれている。その筆致は写実的でありながらも、対象を観察した視覚の記録を超えて、画家の精神的な集中を感じさせる。
この構図はきわめて単純である。しかし、単純さこそが野十郎の狙いであり、彼が「余白を削ぎ落とし、ただ光そのものを描く」という姿勢を徹底させた結果でもある。もしここに山影や樹木、湖面といった付随的モティーフが描かれていたなら、鑑賞者の意識は月から逸れてしまうだろう。野十郎はそうした「物語的背景」を徹底的に排し、ただ満月のみを孤立させることで、観る者に光の本質と直面させている。
本作の核心は、満月そのものではなく、むしろその光が周囲の闇をどのように変容させているかにある。画面を覆う漆黒の空は単なる「背景」ではなく、光と闇との相克の場である。深く塗り重ねられた暗色の層は、静止した闇というよりも、光を拒みつつも呑み込み、なおかつ際立たせるような力を帯びている。
満月の光は、単なる照明ではなく、宇宙の虚空を貫く存在の証として輝く。観者の眼は否応なくその光に吸い寄せられるが、同時に周囲の暗黒が月を支え、浮かび上がらせていることに気づく。つまり、光と闇は対立するのではなく、相互依存的に存在しているのである。この関係性の把握こそ、野十郎が生涯を通じて探し求めた「光の真実」であった。
野十郎は徹底した観察者であった。彼は「対象を見たままに描く」という写実を志向しながらも、それを単なる自然描写にとどめなかった。彼の満月は、望遠鏡を通して見た科学的な精密さと、宗教的な象徴性とを同時に兼ね備えている。
画面に浮かぶ月は、ある意味で「ありふれた風景」である。人類が古来より見上げてきた夜空の一景であり、誰もが知る普遍的な光景だ。しかし野十郎の《満月》は、その普遍性を徹底的に凝視することによって、逆に特異な存在感を帯びる。ここに描かれる月は、単なる天体ではなく、観者の精神を映し返す鏡のような存在である。
この二重性――自然科学的対象でありながら、同時に形而上的な象徴であるという両義性――が、野十郎芸術の真骨頂である。
野十郎は、いわゆる画壇に属さず、中央画壇の栄誉や市場の名声から距離を置いて生きた。農村に暮らし、晴耕雨描の生活を続け、自然を直視し続けた。その孤立はしばしば「世捨て人」とも呼ばれたが、彼自身にとってはむしろ「真に描くべきものへ向かう必然の道」であった。
《満月》は、その生き方を最も端的に体現する作品といえる。ここには社交的な華やぎも、歴史的叙事も、文明的記号も存在しない。あるのは、自然の根源的現象を見つめ続けた一人の画家の眼差しだけである。彼にとって月を描くことは、外界を模倣することではなく、自らの存在を問い直す行為であったに違いない。
野十郎作品にしばしば指摘されるのは「宗教性」である。彼自身が信仰者であったか否かにかかわらず、その絵画は観者に祈りに近い体験をもたらす。蝋燭にせよ満月にせよ、それは「光源」であり、「魂の象徴」である。
《満月》に向き合うとき、観者は自然に沈黙を強いられる。言葉や思考を超えて、ただ光に圧倒され、吸い込まれるような体験をする。その感覚は、宗教的儀式において神聖な存在と対面するときの畏怖にも似ている。つまり、この絵は観者を「光との交感」へと導く装置なのだ。
1960年代の日本美術は、戦後前衛の実験を経て、多様な動きが渦巻いていた。具体美術協会やネオ・ダダ、さらには抽象表現の広がりなど、革新と破壊のエネルギーに満ちていた。そのただ中にあって、野十郎の《満月》は、まるで異次元の存在のようである。
彼の絵は前衛的でもなければ、伝統的な保守絵画でもない。時代の潮流から切り離されたところで、独自の探究を続けていた。だが、その孤立は「時代遅れ」を意味しない。むしろ、現代に至ってこそ、その真摯さと普遍性が輝きを増している。光を描くという課題は、流行や様式を超えて、永遠のテーマだからである。
この作品を実際に前にすると、鑑賞者は不思議な時間感覚に包まれる。静謐でありながら緊張を孕み、闇の中で月がゆっくりと呼吸しているかのように感じられる。筆触は緻密だが、どこか震えるような線が月の周縁に宿り、光が微かに脈動する。その呼吸のような揺らぎは、画家の手の痕跡であり、同時に観者のまなざしを震わせる。
この感覚は、写真や映像による再現では決して味わえない。絵画という物質的支持体に、画家の時間と精神が刻印されているがゆえに、満月は観者に直接的な実在感をもって迫るのである。
《満月》に描かれる対象は、誰もが知る普遍的存在である。しかし、その普遍を凝視する行為は、同時に極度の孤独を要する。月は万人にとって開かれた存在であるが、それを描こうとする野十郎の眼差しは、極めて孤立したものであった。
その孤独の深さが、逆に普遍性を保証している。つまり、《満月》は「孤独を極めた者が見た普遍」であり、だからこそ私たち一人ひとりに等しく響くのである。
光の記録としての《満月》
髙島野十郎の《満月》は、単なる風景画ではなく、「光そのものを記録した作品」である。対象を描くのではなく、光と闇の関係を通して人間存在の深奥に迫る作品である。
それは宗教画でもあり、科学的観察記録でもあり、同時に個人的告白でもある。多義的でありながら、一切の余分を排した純粋な画面は、観者を「見ることの本質」へと導く。
野十郎が生涯をかけて追い求めた光。その集大成の一つとしての《満月》は、現代に生きる私たちに、「光とは何か」「見るとは何か」という根源的な問いを突きつける。そこにこそ、この作品の普遍的な価値と、孤高の画家・髙島野十郎の真実が宿っているのである。
まとめのポイント
《満月》は、余計な要素を排した単純な構図により、光と闇の本質的関係を凝視させる作品である。
孤高の画家・髙島野十郎の生涯と信念が凝縮され、宗教的体験にも近い普遍性を備えている。
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