
髙島野十郎《桃とすもも》
1961年、髙島野十郎が制作した《桃とすもも》は、一見すると果物を題材とした静物画の一作にすぎないように思われる。しかし、そこに漂う緊張感と凝縮された精神性は、単なる写実を超え、鑑賞者に強烈な印象を残す。桃とすももが皿の上に、あるいは机上に整然と並び、その配置は偶然ではなく計算され尽くした構図によって支配されている。画面の奥に吊るされた緑色の玉は、静謐な画面に異質な気配を差し込み、観る者の意識を掻き乱す。そこに込められた意味は明示されないが、全体に漂う「周到さ」と「意図の謎」が、この作品を特別なものとしている。
果実の質感と描写の妙
まず注目すべきは、桃とすももそれぞれの質感の描き分けである。桃は淡い紅色の表面にうっすらと毛が生え、その柔らかさを手で触れたときの感覚まで想像させる。画家は単に色彩や形態を写すのではなく、触覚にまで訴えかけるような感覚を絵具の層の中に封じ込めている。対してすももは、硬質で冷たい輝きを放ち、まるでガラス玉のような光沢をもって画面の光を反射する。その赤紫から黒へと移ろう色合いは、果実の熟度を示すと同時に、画面全体に強いアクセントを与える。柔と剛、温と冷、触覚的な曖昧さと視覚的な明瞭さという対比が、両者の並置によって一層際立つ。
髙島の静物画の魅力は、こうした質感の精緻な描写に集約されるわけではない。重要なのは、それぞれの果実が単独で存在しているのではなく、互いの質感や形態を際立たせながら、画面全体の構成に必然的に組み込まれている点である。桃のふくよかな丸みが画面の柔らかい調子を担い、すももの光沢が画面に緊張をもたらす。それはまるで、異なる性質を持つもの同士の対話のようでもあり、画面は静けさの中に張り詰めた空気を孕むことになる。
構図とV字型のリズム
本作において特徴的なのは、果実が複数の「V字」を形成するように配置されている点である。桃とすももが互い違いに並べられ、その尖端が下方へと収束する視線を導く。V字は単に視覚的な安定をもたらすのみならず、画面に不可視の力線を生み出す。視線は自然とその構造に巻き込まれ、上下の動きや奥行きを感じ取るようになる。
この幾何学的な計算は、偶然の産物ではない。髙島の静物画は、写実性の裏に必ず「構築性」が潜んでいる。机の上に果物を無造作に並べたかのように見えながら、実際には緻密に計画された配置が、画面全体を支配する。静物が持つ「静けさ」は、ただそこにあることの結果ではなく、むしろ構成の厳密さゆえに成立しているのである。
布と器物、そして背景の役割
机上に敷かれた布は複雑な模様をもち、画面に豊かな装飾性を与える。布の模様は、果物の有機的な形態とは対照的に、幾何学的で規則性を帯びる。その反復模様が果実の存在感を際立たせると同時に、画面全体の緊張をさらに高める。布の光沢や皺の表現は、髙島がいかに質感の描き分けに卓越していたかを証明している。
皿の存在もまた重要である。白く硬質な器は、果実の柔らかさを受け止める舞台装置として機能し、同時に画面に冷たい重みを加える。器の縁に反射する光は、すももの光沢と呼応し、画面にリズムを与える。
さらに忘れてはならないのが、背景に吊り下げられた緑色の玉の存在である。果実と直接の関連を持たぬその玉は、異質な記号のように画面に差し込まれ、鑑賞者の視線を一瞬にして惹きつける。緑玉は寓意的な象徴であるのか、それとも単なる装飾であるのか。意味は明示されないが、その「不確かさ」こそが、画面に不可解な深みを与えている。髙島の作品にしばしば見られる、現実と異界を結ぶ裂け目のような感覚は、この緑玉に凝縮されているといっても過言ではない。
野十郎の静物画の文脈
髙島野十郎は、蝋燭や風景で知られるが、静物画の領域においても並外れた成果を残している。《桃とすもも》はその代表例であり、単なる果物の描写ではなく、静物画というジャンルの根源的な問いかけを体現している。
静物画は西洋絵画においてしばしば「ヴァニタス」と結びつき、時の流れや死を想起させるジャンルであった。果実はやがて腐敗し、花は枯れ、器物は壊れる。永遠性を欠いた対象を描くことにより、人間存在の儚さを暗示する。しかし髙島の静物画は、そうした象徴的な死の気配よりもむしろ、「生の凝視」に貫かれている。桃の柔らかさ、すももの冷ややかさ、布の複雑さ、それらすべてが「今ここに在ること」の実感として描き込まれる。
その一方で、過剰なまでの描写の徹底は、かえって対象を「現実から切り離す」作用をもつ。果物はまるで時間を失ったかのように、朽ちることなく、永遠に新鮮な姿を保つ。ここに、髙島独自の宗教的ともいえる静物観が表れている。自然の対象を描きながら、そこに宿る普遍的な真理を掴み取ろうとする姿勢は、彼の風景画や蝋燭画と深く通じるものがある。
宗教的・精神的背景
髙島野十郎は生涯にわたって独りの画家として歩み、芸術団体や流行から距離を置いた。その孤高の態度の背後には、彼の宗教的な思想が横たわっているとしばしば指摘される。《桃とすもも》の背後に漂う緊張感も、単なる形式的美意識の産物ではなく、精神的探求の表現として捉えるべきだろう。
桃とすももは豊饒や生命の象徴であると同時に、時間と腐敗を内包する存在でもある。だが髙島の筆は、果実をその「死にゆく運命」から切り離し、永遠にみずみずしい状態のまま画面に封じ込める。これは「無常の克服」を志向する宗教的姿勢と響き合う。背景の緑玉も、そうした「現実を超えた記号」として読み解けるだろう。
彼にとって描くことは、対象の美しさを単に愛でる行為ではなく、存在の根源を凝視する行為であった。果物の毛一本まで克明に描くという行為は、世界を余すことなく受け止めようとする祈りに似ている。こうした態度は、同時代の写実画家のアプローチとは一線を画している。
凝縮された沈黙の力
《桃とすもも》は、桃の柔らかさとすももの硬質さ、布の複雑さと器の冷たさ、そして緑玉という謎めいた存在が重層的に組み合わさり、圧倒的な緊張感を放つ静物画である。その周到に計算された構図と徹底した質感描写は、鑑賞者を息詰まるような凝視へと誘い、やがて「見ること」と「存在すること」の根源的な意味を問いかけてくる。
1961年という制作年は、髙島がすでに孤独な生活の中で静かに創作を続けていた時期にあたる。世俗的評価や流行から遠ざかり、ただひたすら対象に向き合う画家の姿勢は、この一枚の果実画に凝縮されている。そこにあるのは、桃やすももといった果実以上の「存在の象徴」であり、髙島野十郎が生涯をかけて追い求めた「真実」の一端にほかならない。
《桃とすもも》は、静物画というジャンルの本質を問い直し、同時に鑑賞者に存在そのものの重みを感じさせる作品である。果実の輝きに触れたとき、我々はただ「美しい」と思うのではなく、その背後に横たわる沈黙の力を感じ取るのである。
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