
「祝祭の絵」を静かに見る
題名が先に語るもの
「国光瑞色」という四字は、まず音の手触りが作品の運命を規定している。〈国光〉は国家的光輝・国威の比喩であり、〈瑞色〉は吉祥を告げる色、すなわち「瑞祥」を視覚化する色彩の総称である。1942年という年記は、この語感を単なる雅語の域に留めず、時代の心理と政治の圧を帯びた美的言語へと変換する。
絹本は、紙本に比して光の回折・透過のふるまいが繊細で、胡粉や岩絵具、膠の層が抱える微細な粒子が、絹糸の経緯に沿ってほのかに光を返す。絹自体が「光」を宿す支持体である以上、「国光」を主題化することは、支持体の物理特性を観念へ転化する行為でもある。すなわち光は描かれるのではなく、まず素材に内在している。画面上の色が乾くとき、膠はわずかに透明度を上げ、絹の目が底光りを保つことで、色彩は「瑞色」としての清冽さを獲得する。瑞色は派手さではなく、むしろ含羞のある輝度差――沈んだ地の上でだけ立ち上がる冴え――として経験されるはずだ。
この素材選択は、象徴性の表層を超えて、作品の倫理にも関わる。つまり、過剰な主張を拒む支持体ゆえに、昂揚の言説を担いながらも、画面には静けさや節度が宿りうる。絹本彩色の伝統的な「間」の活かし方――余白、薄塗り、洗い――は、むしろ時代の鼓舞的レトリックをやわらげ、見る者に自律的な思索の呼吸を返す可能性を秘める。
「瑞色」とは固定色名ではない。龍や鳳凰、松竹梅、菊、鶴、雲気、旭光、波頭といった吉祥イメージに付随して歴史的に形成されてきた色の組み合わせ――丹・緑青・群青・金泥・胡粉――の総体を指す語であり、状況に応じて可変である。仮に金泥や胡粉が控えめに使われたとしても、絹の発色がそれを過度に押し上げることはない。重要なのは、色が単独で「瑞」を表すのではなく、対比の仕方――たとえば沈んだ地墨と淡彩の擦れの隣り合わせ、透明と不透明の重ね――によって吉兆性が立ち上がる点である。瑞とは、色そのものの派手さではなく、現前の世界に兆す「差異」の感知であり、それを可能にするのは色の置き方、すなわち構成の倫理である。
戦時下美術における構成は、しばしば中心の強調と対称性の志向を示す。題名が「国光」を掲げる以上、中心的な輝点、あるいは放射の示唆が画面設計上の一要素であって不思議ではない。しかし絹本彩色の伝統は、同時に余白を生かす非対称の美学を内蔵する。もし画面に放射の示意があったとしても、余白と淡墨が緩衝帯となり、視線の高ぶりを「間」で受け止めるだろう。すなわち、この作品に期待されるのは、昂揚の図式を採りながら、それを美的抑制の秩序――余白・ぼかし・にじみ――に回収する二重の設計である。ここに、日本画が持つ「形式による倫理」の強度が現れる。
吉祥の名のもとに動員されるモチーフ(松・竹・梅、菊、鶴、鳳、旭光、波)は、いずれも長寿・繁栄・清明を象徴する。だが、その象徴性を成立させているのは、生態的・物理的な観察の蓄積であり、絹本彩色はその観察を繊細に記述するのに適う。たとえば松の古葉の鈍い緑と新芽の明るい緑の差、鶴の羽の胡粉の厚みと首の黒の艶、波の飛沫の霧化と地の吸い込み――こうした差異の観察なくして、吉祥は空疎となる。瑞色が瑞色たりうるのは、象徴の祝祭性が、観察に基づく微細な物質表現に支えられているときだけである。
日本画の層は、油彩のグレーズとは異なる時間を要する。にじみと染み込み、乾きと再含水、重ねの順序――いずれも作者の身体の律動と連動する。1942年の制作環境を思えば、物資の制約はあっただろう。しかし制約はしばしば技法の冴えを促す。彩度を上げるのではなく、粒子の粗密を調整し、地と色の距離感で明度差を作る。こうして立ち上がるのが、声高ではない「光」であり、それが「国光」を観念としてではなく、現象として保証する。つまり色は意味を語る以前に、まず物質として「振る舞う」。ここに日本画の倫理がある。意味に先行する物質の忠実さ、物質に先行する手の節度である。
本作に向き合うとき、遠目では構成の秩序――もし放射があればその収斂、もし対角線があればその緊張――が先に目に入るだろう。近目では、膠の引き、胡粉の角、絹の目に絡む微細な染みが、画面の呼吸を規定していることに気づくはずだ。重要なのは、視線の速度である。題名がもたらす昂揚は視線を速めるが、絹本はその速度を受け止めない。近づくほどに、見る者は遅く、静かになる。
瑞色とは、色名ではなく、この速度変化そのもの――昂揚から静寂へ、スローへと移行する視覚の体験――のことなのかもしれない。
近代日本画は、しばしば「伝統」と「近代化」の二項で語られるが、実際には素材の側での微調整、たとえば絵具の粒度の選択、滲みの範囲管理、胡粉の締め方など、無数の局所的な判断が全体の表情を決定している。「国光瑞色」という作品は、その題名の大仰さとは裏腹に、局所の判断の集積によってのみ説得力を持ちうる。もし画面のどこかに吉祥の象徴が配されているとしても、それが単なる図像の並置に終わらず、呼吸の合った色の置換として機能しているならば、そこには確かに「近代」の自覚がある。近代とは、象徴を反復するのではなく、象徴が色と素材の関係において成立する条件を、再度ゼロから構築する営為だからだ。
「祝祭の絵」を静かに見る
最終的に、本作は「祝祭の絵」として現れるだろう。だが、その祝祭は喧噪ではなく、微細な手触りとしての祝祭である。絹の繊維に絡む絵具の粒、その粒が返す光、光を受け止める余白。1942年という重い時間を帯びながら、画面はなお静かだ。静けさは逃避ではない。むしろ、観念の高ぶりを一度、物質の手の内に戻すこと――それがこの作品の倫理であり、美術のもつ根源的な力である。題名が観念的に掲げた「国光」は、絵具のふるまいとして再定義され、瑞色はキャンバス(厳密には絹本)の呼吸の速度に転化する。われわれは、その速度に合わせて見るだけでよい。そこに戦時の絵画を今日の私たちの前に開く、最小にして最大の通路がある。
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