
甲斐仁代の作品「秋のうた」1959年制作、
色彩の多層構造による詩的表現
甲斐仁代は、しばしば「色の魔術師」と称される洋画家であった。岩手県に生まれ、地方の厳しい自然と共に育った彼女の感性は、自然界の色彩の移ろいを深く体に刻み込んでいた。美術学校での基礎的修練を経て、戦前から戦後にかけて、甲斐は自らの色彩表現をひたむきに追求する道を歩み続けた。当時の女性洋画家はまだ数が少なく、展示機会や評価の面でも不利な立場に置かれていたが、甲斐はその状況に屈することなく、独自の制作姿勢を守った。
1959年という年は、戦後復興から高度経済成長期へと移る端境期であり、美術界もまた抽象表現や新しい造形運動の潮流が押し寄せていた。その中で、甲斐は流行に迎合せず、自らの確信する「色の詩学」を深化させる道を選んだのである。
《秋のうた》は、縦73.0cm、横91.0cmという中型キャンバスに描かれ、全体を覆うのは秋の季節感を象徴する暖色系の色彩である。「秋のうた」という題名は、単なる季節の情景描写ではなく、詩的な感情や音楽的ニュアンスを孕んでいる。日本美術の伝統において、秋は収穫と成熟、そして別れや静寂を内包する季節である。甲斐はその多層的な意味を色彩の響きへと変換し、視覚だけでなく聴覚や嗅覚、さらには触覚までも想起させるような作品世界を構築した。
画面にはオレンジ、朱、黄褐色を主体とする色面が広がり、そこに深い青緑や灰色がアクセントとして差し込まれている。これらは単なる補色関係ではなく、半透明の層を幾重にも重ねることで、色そのものが空気や光を内包するかのような奥行きを生み出している。筆致は一見即興的で大胆だが、その背後には緻密な順序と筆圧の変化のコントロールがある。甲斐は色を混ぜ合わせるのではなく、ほぼ純色に近い状態の絵具を筆先でそっと触れさせ、画面上でわずかに溶け合う瞬間を活かしている。この手法は、色の透明感と深度を同時に獲得するためのものであり、《秋のうた》においては、秋の陽射しが物の表面を撫で、やがて陰影に沈むまでの時間の流れを感じさせる。
暖色と寒色を半透明の層で何度も重ねることで、秋の豊かさと儚さという相反する感情を同時に表現している。色の境界に生じる微妙な揺らぎが、季節の移ろいを視覚的に体感させる。
構図の面でも、《秋のうた》は特筆すべき音楽的リズムを備えている。画面を縦横に区切る明確な線はなく、色面が緩やかにせめぎ合い、時に重なり、時にほどける。視線は自然に画面の中心から外縁へ、また外縁から中心へと循環し、全体として旋律のような流れを持つ。甲斐は形態を具体的に描き出すことよりも、色の配置と強弱によって感情を構築し、見る者の心を「聴く」ような体験へ導く。この構図のリズムは、まさに題名にある「うた」を視覚化したものと言える。
具体的な形態描写を避けつつ、音楽的リズムを持つ色面構成によって感情を喚起する。戦後美術の抽象化の潮流と距離を保ちながら、日本的抒情と油彩技法の融合を実現している。
《秋のうた》では、秋の持つ二面性が見事に表現されている。一方には、収穫や成熟に象徴される豊かさと温かさがあり、他方には、葉が落ち、光が弱まり、冬の訪れを予感させる静寂と儚さがある。甲斐はこの相反する要素を色彩の重ね合わせによって融合させ、鑑賞者の心にゆるやかな情感の波を呼び起こす。特に、暖色と寒色の境界部分には微妙な揺らぎがあり、それがまるで季節の変わり目に吹く一陣の風のように感じられる。
1959年という年は、日本の美術界にとっても重要な転換期であった。前衛美術運動や国際的な美術交流が活発化し、抽象表現やアンフォルメルが流行していた。しかし甲斐は、それらの潮流と距離を保ちながらも、完全な具象にも抽象にも収まらない「中間領域」の作品を生み出した。これは単なる時代遅れではなく、むしろ日本的感性と油彩画技法の新しい接合点を提示する試みであった。《秋のうた》は、戦後日本洋画の中で、抒情と構成、伝統と現代性が調和する稀有な例として位置づけられる。
本作は後に東京国立近代美術館に収蔵されたが、その背景には石橋正二郎による寄贈がある。石橋は実業家としてだけでなく、美術保存と普及に大きく貢献した人物であり、この寄贈は甲斐の画業にとっても重要な意味を持つ。国立美術館への収蔵は、単なる一作家の名誉ではなく、女性洋画家の作品が日本近代美術史の正史に組み込まれる契機となった。《秋のうた》はその象徴的存在であり、以後、展覧会や研究の場でたびたび取り上げられることになる。
鑑賞者はまず、温かな色彩の包囲感に惹き込まれる。その後、画面を細かく追うにつれ、筆致の方向や絵具の厚み、色の混ざり方に微細な変化があることに気づく。全体は静かに安定しているが、部分には色が跳ねるような動きが潜み、その一瞬が旋律の高まりのように心に響く。長く見つめれば、画面全体が呼吸をしているかのような感覚に包まれ、時間の流れすら忘れてしまうだろう。
《秋のうた》は、甲斐仁代の画業の集大成のひとつであり、日本近代洋画における色彩表現の可能性を示す重要な作品である。オレンジと青緑の交錯、暖色と寒色の境界の揺らぎ、そして音楽的な構図のリズムは、半世紀以上の時を経てもなお新鮮な感動を与える。甲斐が紡いだ「うた」は、決して声高ではないが、その旋律は静かに、しかし確かに、美術史の中で響き続けている。
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