
福沢一郎の《二重像》
目撃者と鑑賞者のあいだに生まれる二重性
1937(昭和12)年に制作された福沢一郎《二重像》は、その題名が示す通り、ひとつの画面のなかに「二つの像」が存在しているように見える。しかし、その二つは単純に二人の人物という意味だけに留まらない。本作における「二重性」は、画面構造やモチーフの引用方法、そしてそれを眺める我々鑑賞者の心理のうちにまで深く浸透している。
向かって右側の女性像は、初期ルネサンスの画家マザッチョによる壁画《共有財産の分配とアナニヤの死》(1425–1428年頃、フィレンツェ・サンタ・マリア・デル・カルミネ聖堂ブランカッチ礼拝堂)の一部を参照している。マザッチョの原作では、神を欺いて私財を隠した罪を暴かれ、聖ペテロの前で息絶えたアナニヤの姿が中央に横たわり、その周囲で人々がその死を見守る場面が描かれる。福沢はそのなかの一人、名もなき群衆のひとりの姿を取り出し、独立した人物像として描き出した。だが、マザッチョの壁画では、彼女の隣に左側の人物は存在しない。ここに、福沢独自の付加と変形が生じている。
本作の左側に描かれた人物は、マザッチョの原作にはいない。つまり、福沢はルネサンスの宗教画から一人の目撃者を抜き出し、それに寄り添うように、もう一人の存在を新たに描き加えている。左側の人物は背を向けており、顔は見えない。この背面像は、構図的に右の女性とほぼ対称的に置かれているが、まるで画面奥の出来事をともに見つめているようでありながら、その視線の先が何であるかは描かれない。
このとき鑑賞者は奇妙な感覚を覚える。右の女性は、マザッチョの壁画の一部としては明確に「事件の目撃者」であった。しかし左の背面像は、事件そのものではなく、むしろ右の女性を眺めているようにも見える。もしそうであるならば、画面内で「目撃する者」と「目撃される者」の関係が成立し、その視線の連鎖に鑑賞者自身も巻き込まれることになる。私たちは、背を向ける人物の背中を見つめながら、同時に右の女性が見ているであろう出来事を想像し、その間に「もう一人の自分」を感じる。この感覚こそ、福沢が題名に込めた「二重像」の核心に近い。
福沢はパリ留学を経て帰国後、1930年代の日本美術界で前衛的な存在感を示していた。シュルレアリスムやキュビスムの影響を受けつつ、西洋美術史の古典的モチーフを再構成する手法を得意とした。本作におけるマザッチョからの引用は、単なる模写や敬意の表明ではない。彼はルネサンス絵画の中に潜む物語の断片を切り取り、それを全く異なる文脈に置き換えることで、新しい意味を発生させている。
1930年代の日本は、日中戦争の開戦を目前にした政治的緊張のただなかにあり、文化活動にも統制や検閲が強まっていた。宗教画の引用は一見無害に思えるが、福沢が取り出したのは「不正を暴かれ、死に至る者を見つめる群衆」というテーマである。これを現代的な寓意として読むならば、権力の監視下で人々が他者の失敗や破滅を見届ける構図とも解釈できる。背を向けた人物は、そんな現場に立ちながらも物語に直接関与せず、ただ目撃する立場を選んだ存在、つまり「傍観者」の象徴である可能性がある。
絵画において背を向けた人物は、しばしば鑑賞者の「代理」として機能する。西洋美術史における代表例としては、カスパー・ダーヴィト・フリードリヒの風景画に立つ人物像が挙げられる。彼らは鑑賞者を画面内に誘い入れ、視線を導く装置となる。《二重像》の左側の人物も、この効果を利用している。だが同時に、彼/彼女は右の女性を見つめるような配置でもあり、視線の方向は曖昧だ。この曖昧さが、鑑賞者に多義的な読みを促す。
もし左の人物が右の女性を見ているのなら、画面内に「見る者」と「見られる者」の対が生じ、それを外側から鑑賞する我々が三重の視線関係を構成する。逆に、左の人物が右の女性と同じ方向を向いているのなら、我々鑑賞者は彼らと並び立ち、同じ出来事を共有していることになる。この二つの解釈は互いに排他的ではなく、むしろ同時に成立しうる。ここにおいて「二重像」という題は、単に二人の人物という物理的二重性に加えて、鑑賞者の意識の中で二つの立場が同時に体験される心理的二重性をも意味していると考えられる。
福沢の1930年代の作品には、やや沈んだ色調と、マチエールを強調した筆致が多く見られる。《二重像》でも、原画であるマザッチョのフレスコがもつ穏やかな明暗法とは異なり、より強いコントラストと厚みのある油彩の質感が用いられている。右の女性の衣服や肌の表現は、古典絵画の再現というよりも、福沢独自の解釈に基づく造形的な再構築である。一方、左の背面像は簡略化され、衣服の色も周囲と同化するように抑えられている。これにより、鑑賞者の視線は自然と右側の女性に引き寄せられ、背面像はその案内人でありつつ、同時に存在を希薄化させる役割を担っている。
1937年は、日本にとって転換点の年であった。日中戦争が勃発し、社会全体が戦時体制へと傾斜しつつあった時期である。文化や芸術にも「国策への協力」が求められ、個々の表現は検閲や自己規制を余儀なくされた。福沢は戦前から一貫して前衛的な立場を保ち、時に政治的な風刺を作品に織り込んだ画家であった。本作における「死の現場を見つめる目撃者」と「背を向ける傍観者」という構図は、そうした時代における人々の立ち位置——権力の行使を目の当たりにしながらも、直接的には関与せず、ただその出来事を目撃するだけの市井の人々——を象徴している可能性がある。
背を向けた人物は、もしかすると鑑賞者に対して「あなたはどちらの側に立つのか?」と問いかけているのかもしれない。死を見つめる群衆の一員として積極的に関わるのか、それとも距離を置き、沈黙の立場を選ぶのか。いずれも、権力と暴力の現場における人間の態度を問う視線である。
鑑賞者がこの作品の前に立つと、まず目に入るのは右側の女性の静かな表情である。だが、視線を左に移すと、背を向けた人物の存在が、右の女性の物語を強く意識させる。やがて我々は、この背面像と同じ立場にいることに気づく。私たちもまた、出来事を直接見ることはできず、右の女性の視線の先を想像するしかない。そうして、右の女性に自分を重ねる意識と、左の人物に自分を重ねる意識が交互に入れ替わる——この感覚が「二重像」という題の真の意味である。
福沢一郎は、1930年代日本において、西洋美術の古典と現代的問題意識とを結びつける数少ない画家のひとりであった。《二重像》は、その代表例として、時代を超えて観る者に問いを投げかけ続ける。マザッチョの群衆から切り取られた「目撃者」と、そこに加えられた「存在しなかった目撃者」。二人のあいだに流れる沈黙は、今もなお、我々の中に二重の像を結び、自己の立場を見つめ直させるのである。
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