
人工と自然の夢幻交錯
古賀春江の作品《海》
1929年に制作された古賀春江の《海》は、昭和初期という時代の空気を、夢のような詩情と冷静な構成力によって封じ込めた稀有な作品である。東京国立近代美術館に所蔵される本作は、一見してその不思議な静けさと多層的なモティーフの絡まりによって鑑賞者の視線を捉えて離さない。空と海の間に漂うのは、近代という時代そのものが孕む諸相であり、自然と人工、現実と夢、さらにはローカルとグローバルの交差が、構成的な冷静さと象徴的な詩意をもって視覚化されている。
画面構成にみる「対称」の詩学
まず注目すべきは、本作の根底に流れる「対比」と「対応」の構造である。画面の右上には、鳥と飛行船が浮かび、下部には魚と潜水艦が佇む。それぞれが「自然物」と「人工物」というカテゴリーでペアを成し、上空と水中という異なる空間に配置されている。加えて、右端には静かに佇む女性像、左端には煙を吐く工場の煙突。いずれも直立するフォルムを共有しながら、その意味と存在感は著しく異なる。
このようなペアリングの配置は、視覚的なリズムを画面に与えるだけでなく、鑑賞者の認識を「関係性」へと向けさせる。それぞれの要素が単体として存在しているのではなく、常にその隣接物との「似て非なる」関係性の中で意味を帯びるのだ。この構成法は、単に図像的な整合性に留まらず、当時の社会や文化のなかに蠢く、近代的視覚の在り方、あるいは「同時代性」の複雑な層をも可視化している。
さらに言えば、このような対応関係は、古賀自身の作品に通底する「バランス」への意識の表れでもある。彼の画面は、どこか人為的な冷たさを湛えながらも、決して無機質に堕することはない。秩序の内に詩があり、整然のなかに夢が潜んでいる。構成主義と象徴主義の交錯こそ、彼の様式の本質といえるだろう。
超現実とメタフォリカルな「海」
タイトルが《海》であるにもかかわらず、この作品には直接的に波や潮のうねりといった海そのものの描写は存在しない。むしろ海という語が喚起するのは、「広がり」と「深み」、「境界の曖昧さ」であり、そこに浮かぶ諸々のモティーフが、夢のように意味をずらしながら出現しているという印象である。
古賀春江はこの時期、シュルレアリスムや構成主義に触発されながら、独自の幻想絵画を模索していた。特に1920年代後半は、彼がいわゆる「夢幻派」として分類される作品群を制作していた時期であり、《海》もその代表的成果のひとつである。だが彼の夢幻性は、単なる視覚的なシュルレアリスム模倣にとどまらない。彼の作品には、構成的な冷徹さがあり、それが夢のイメージを、どこか冷たい、客観的な次元へと導いている。
《海》に描かれたモティーフ群も、確かに非現実的な取り合わせではある。だが、それらは乱雑に配置されているのではなく、一定の論理に則って、冷静に配列されている。この緊張感こそが、作品に独自の抒情性を与えている。海とは、単なる舞台ではなく、諸元素を浮かび上がらせる「装置」として機能しているのである。
ここでの「海」は、もはや自然の風景ではなく、「意識の奥底」や「集合的無意識」のメタファーとして捉えられるべきかもしれない。海の中には、記憶が沈み、幻想が漂い、未来の断片がぼんやりと揺れている。《海》というタイトルは、そうした人間の内面と時代の情動を可視化するキーワードともいえよう。
グロリア・スワンソンの影
本作の右端に描かれた女性像は、実在の人物をもとにしていることが知られている。ハリウッドの大女優グロリア・スワンソンの絵葉書から着想を得たとされるこの女性像は、冷たい眼差しと静かな表情で画面の外を見据える。だがこの人物は、単なる肖像というよりも、ある象徴的な存在として配置されているように見える。
スワンソンは1920年代にサイレント映画の女王として君臨した存在であり、そのイメージは当時の都市文化やモダニズムの潮流と深く結びついていた。古賀がスワンソンの写真を絵に取り込んだことは、当時の日本においてもグローバルな視覚文化が浸透しつつあったこと、そして彼自身がその波に極めて敏感であったことを示している。
だが重要なのは、彼女が「海」の風景の中に、突然異質な存在として置かれているという点である。画面上の他の要素が、どこか寓意的でありながら、自然物や機械の抽象化された記号として機能しているのに対し、彼女だけはあくまでもリアリスティックに、具体的な「顔」として提示されている。彼女の存在は、画面に人間的な情念の気配を忍び込ませると同時に、逆にその場違いさによって、作品全体の「非人間的な構成性」を強調する装置ともなっている。
この女性は、風景の一部でありながら風景に溶け込まず、どこか静かに浮遊しているようにも見える。その「浮遊感」こそが、古賀春江が描こうとした近代の孤独や不安の核心なのかもしれない。
都市と機械への幻想
《海》に描かれた飛行船、潜水艦、工場の煙突といったモティーフは、明らかに近代都市のテクノロジーを象徴するものである。それは、単に機械文明の記号ではなく、「空を飛ぶもの」「海を泳ぐもの」「地上に立つもの」として、空間の三次元的構造を表象する役割も担っている。
だが古賀のこれらの描き方は、どこかおもちゃのように簡略化され、フォルムが柔らかくデフォルメされている。現実の機械とは異なる、どこか非現実的で幻想的な存在感がそこにある。これは、未来への希望としてのテクノロジーが、どこか夢の中の幻影のように捉えられていた当時の感覚を映し出しているともいえる。
1929年という時代は、世界的には1920年代末の景気後退の兆しが見え始めた時期であり、また日本においても昭和金融恐慌の余波が社会を覆っていた。そんな中で、空飛ぶ機械や深海の潜水艦といった存在は、「未来」や「未知」と結びついた想像力の対象となり得た。それらが幻想的に配置されることで、《海》は時代の心理的地図としても読解可能になる。
夢幻と構成の狭間に
《海》という作品が到達しているのは、夢と現実、詩と構造の絶妙な均衡点である。古賀春江は、生涯を通じて幻想的世界への憧憬と、構成的秩序への傾倒という二つの欲望のあいだで揺れ動いた画家であったが、この作品においては、その両者が稀有な均衡を保っている。
この絵を観ることは、ある時代の精神風景を垣間見ることでもある。近代という時代が、「合理性」と「詩情」、「技術」と「身体」、「グローバル」と「ローカル」といった対立項を未分化なまま呑み込み、夢のように咀嚼しようとしていたあの刹那の気配が、《海》の画面には確かに宿っている。
そして、その画面のどこかには、いまなお我々が忘れがたく抱え続けている、時代の不安と希望が、密やかに封じ込められているのだ。
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