【いちご】ルノワールーオランジュリー美術館所蔵

【いちご】ルノワールーオランジュリー美術館所蔵

展覧会【ノワール×セザンヌ ―モダンを拓いた2人の巨匠】
オランジュリー美術館 オルセー美術館 コレクションより
会場:三菱一号館美術館
会期:2025年5月29日(木)~9月7日(日)
ルノワールの筆が語る甘美なる果実

「いちご」(1905年頃)をめぐって

オランジュリー美術館に所蔵されているピエール=オーギュスト・ルノワールの《いちご》は、彼の晩年に描かれた静物画のひとつであり、果物を主題とした一連の作品の中でも、ひときわ穏やかで親密な空気を漂わせている。本作は、2025年三菱一号館美術館で開催される展覧会「ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠」においても、その対照的な美学の焦点として展示される重要作のひとつである。

印象派として出発したルノワールは、19世紀後半から20世紀初頭にかけて、人物画や風景画に加え、数多くの静物画を手がけている。特に晩年には、リウマチによる身体的制約を抱えながらも、絵筆への情熱を失うことなく、身近な対象——果物、花、陶器、布——を描き続けた。《いちご》もその流れの中に位置づけられる作品であり、限られたモチーフにすべての視線と想いを注ぎ込むような凝縮感が画面に漂っている。

構図はごく簡素である。陶器の皿に山盛りにされた赤い果実。背景は柔らかな布地とテーブル、画面右端には器の縁がちらりと見切れている。だがその限られた視覚情報の中に、驚くほどの豊かさと多様性が込められている。

いちご一粒一粒の描写には、観る者の視線を誘うような鮮烈な赤と艶やかさが宿っている。ルノワール特有の、輪郭線を溶かすような筆遣いと、微細な赤の諧調によって、果実は単なる食物ではなく、生命そのもののように感じられる。

背景とのコントラストも見事で、果実の濃密な赤が、生成りの布地や陶器の柔らかな白とぶつかり合うことなく調和している。その調和の中に、静けさと色彩の歓びが共存する。本作は視覚的快楽と官能性、そして対象への慈しみを同時に備えており、まさにルノワールの美的世界を凝縮した小宇宙である。

ルノワールは、生涯にわたって「絵は楽しいものでなければならない」と語っている。その言葉通り、《いちご》には、見る者を幸福へと導く穏やかな力が満ちている。果物というモチーフは、美術史上、享楽、官能、儚さ、自然の豊かさなど多くの意味を担ってきた。中でもいちごは、その色と形ゆえに、少女の唇や頬、あるいは恋の予兆といった象徴的な読み取りも可能な果実である。

だがルノワールはそうした寓意性を誇張せず、むしろ無意識に、あるいは意識的に排除するかのように、純粋な「見ることの喜び」だけに集中している。これは、ルーベンスやブーシェといった18世紀のフランス絵画の系譜を汲みつつ、近代の新たな感覚主義を切り開こうとする姿勢とも見て取れる。

とりわけ晩年の彼にとって、絵を描く行為そのものが、制限された身体の中で自由を得る唯一の手段だった。リウマチの進行によって手指の自由が失われ、筆を包帯で手に括りつけて描いていたことは有名である。だが《いちご》からは、そのような困難の影すら感じさせない、むしろ生の喜びそのものが伝わってくる。色彩はまるで、絵筆からではなく、彼の掌や心臓から直接キャンバスに染み出してきたかのようである。

ルノワールにとって「色彩」は単なる視覚要素ではない。それは触覚的な体験であり、感情の襞であり、愛撫の手つきであった。《いちご》における赤の多様な層は、いわば絵画における皮膚のようなものであり、観る者は視線を通じてそれを撫で、味わうことができる。画面には、冷たさや硬さは一切存在せず、すべてが柔らかく、親密で、温かい。

このような色彩の感覚的アプローチは、フォーヴィスムの先駆ともなったマティスや、親密な室内空間を描いたボナールといった後代の画家たちにも影響を与えている。だが、ルノワールの色彩は彼らと比べてより感情に即しており、知的構築よりも、直感的な感性のなかで熟成されている点で特異である。赤は赤として、白は白として、彼の手の中で有機的に呼吸し始めるのだ。

2025年の展覧会では、本作がポール・セザンヌの静物画と並べて展示されるという点にも注目したい。セザンヌにとって果物は、視覚の構造を解明するための道具であり、画面を支配する構築的な「重量」の単位であった。彼の果物は冷たく、動かず、厳格である。それに対し、ルノワールの《いちご》は暖かく、柔らかく、触れたくなるような「感覚の泉」である。

両者の静物画を並置することは、印象主義からモダニズムへの移行における「感覚」と「構築」の分岐点を明らかにするうえで極めて有効である。美術史において、果物は単なる対象物ではなく、芸術家の思考と感情を託す「鏡」であり続けてきた。

セザンヌは構造を描き、ルノワールは愛を描いた。果実ひとつにも、それぞれの人生観、芸術観、そして世界との向き合い方が表出している。

果実という祝祭

ルノワールの《いちご》は、小さな画面のなかに、絵画という行為の根源的な喜びを宿している。それは色彩への愛であり、触覚的な視覚体験への信頼であり、何よりも「日常の中の美」への確信に満ちている。

観る者はこの作品の前で、時間を忘れ、視線をゆだね、果実の香りすら感じ取るような錯覚を覚えるだろう。静かに湧き出す赤の波紋に触れながら、ルノワールが晩年なおも手放さなかった「見ることの悦び」に、私たちは共に包まれるのだ。

彼が果実に託したのは、絵画が人間に与えうる最も純粋な幸福——それは技巧でも思想でもなく、ただ一瞬の「美」そのものである。そしてそれこそが、現代においてなおルノワールを「モダンの先駆」として再評価すべき理由なのである。

ルノワールの芸術は、近代化の荒波のなかで失われがちな「感覚の快楽」を取り戻す場でもあった。彼の作品を前にすると、私たちは芸術がいかにして日常のなかに「静かな奇跡」をもたらしうるかを知る。それは決して大仰なドラマではなく、むしろ誰の目の前にも等しく開かれた、やわらかく差し出された世界である。

また、日本におけるルノワール受容は、戦後の美術教育や印刷文化を通じて広く浸透し、とりわけその「優美で親しみやすい」作風は、時代を問わず高い人気を保ってきた。今回の展覧会における《いちご》の公開も、多くの鑑賞者にとって、ルノワールの本質と改めて向き合う契機となるだろう。

最後に、この作品の絵肌に宿る「幸福」の質について改めて述べておきたい。ルノワールにとって幸福とは、苦しみの不在ではなく、むしろ痛みや限界のなかでなお光を見出す力であった。《いちご》の赤は、単なる果物の色ではなく、生命を肯定する芸術家の熱そのものなのだ。絵画が人間の尊厳を育む手段であることを、ルノワールは語ることなく、ただ描くことで示してくれる。

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