
展覧会【ノワール×セザンヌ ―モダンを拓いた2人の巨匠】
オランジュリー美術館 オルセー美術館 コレクションより
会場:三菱一号館美術館
会期:2025年5月29日(木)~9月7日(日)
肉体の光、精神の翳
ピエール=オーギュスト・ルノワール《頬づえをつく女》にみる晩年の審美と存在の問い
1910年から1914年のあいだに描かれたルノワールの《頬づえをつく女》は、その柔らかな光彩と圧倒的な肉感性を湛えながら、画家の晩年における表現の到達点を物語るような一作である。本作はオランジュリー美術館のコレクションに属し、2025年に三菱一号館美術館で開催される「ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠」展においても、注目すべき作品の一つとして展示される。その意味においても、単なる女性肖像の枠を超えて、20世紀美術の萌芽に接続するルノワール晩年の画業の核心として再評価される契機ともなろう。
《頬づえをつく女》の画面構成は至って簡潔である。モデルとなる女性は画面の中央に腰かけ、ややうつむきながら頬に手をあてて思索的な表情を浮かべている。背景には明確な奥行きや舞台設定がなく、曖昧な色彩の重なりと柔らかなグラデーションが空間を満たしている。その中に、女性の頬、二の腕、指先といった身体の諸部分が、まるで陽光を浴びた果実のように発光しながら浮かび上がっている。
このような空間性の希薄さと身体の塑性表現の対比こそが、ルノワール晩年の最大の特質である。彼の筆致は、もはや物の輪郭を強調せず、輪郭線をぼかし、肌の質感や肉の柔らかさを滲ませることで、具象と抽象のあわいにあるような印象を画面全体に漂わせる。ここでは人物というより、「光のかたまり」としての存在が描かれているのだ。
この点において、《頬づえをつく女》は肖像画というジャンルからも逸脱している。モデルが誰であるかは明らかではなく、画家の妻アリーヌや乳母ガブリエル、あるいは長年のモデルであった女性たちのいずれかである可能性もあるが、決定的な証拠はない。しかし、それこそがルノワールの意図でもあろう。すなわち、この作品は「誰が描かれているか」よりも、「描かれたものがいかにそこにあるか」ということを主題とするからである。
ルノワールは晩年、自らの病との闘い——関節リウマチという激しい痛みをともなう持病——の中でも創作を止めることなく、むしろその中で肉体表現の極致を追い求めていた。《頬づえをつく女》においても、モデルの頬の柔らかさ、腕の厚み、肩のふくらみといった、肉の質感が執拗なまでに描き込まれている。それは自然主義的な写実とも異なる、感触としてのリアリティである。
このような肉体描写の徹底は、ルノワールが古代彫刻やルネサンス絵画に範をとった「新たな古典主義」を志向していたこととも無関係ではない。19世紀末から20世紀初頭にかけて、ルノワールはイタリアを旅行し、ラファエロやティツィアーノ、ルーベンスといった古典的巨匠たちの作品に魅了されていく。彼の言葉に「絵画において真に不変なのは、美しい肉体を描くことだ」とあるように、人体こそが時代や潮流を超えて絵画を支える基盤であるという信念が、作品の根底にはある。
その結果、《頬づえをつく女》の女性像には、単なる感傷や気分の描写ではなく、より永続的な「存在の美」が託されている。手を頬に当てたこの姿勢は、思索する女というより、静謐な時間のうちに没入する一個の生きものとしての姿を映し出す。言葉を持たず、ただそこに在る。観者はそのありようを、画面越しにじっと見つめるしかない。
ルノワール晩年の筆致は、印象派時代の軽やかな点描的タッチからさらに深化し、より滑らかで官能的なストロークに変化している。《頬づえをつく女》では、肌の描写に細密な色の層が重ねられ、ピンクやオレンジ、白、そしてかすかに青みを帯びた影が、肌の起伏に沿って溶け合っている。ここにはもはや「色と形の統合」という問題ではなく、「色彩そのものが形を生み出す」という逆転した視座が感じられる。
身体は輪郭によってではなく、筆触によって生成される。つまり、線による構成ではなく、面と面の間に発生する緊張と融解のリズムの中で、身体が「そこにある」ように見えてくるのである。これはセザンヌが目指した構築的な空間の生成とは異なる方法で、同じく近代絵画の一つの終点としての「実在感」を追求した結果であるといえよう。
《頬づえをつく女》の魅力の一つは、その表情に漂う静けさと、どこか夢見るような内省性である。目は半ば閉じられ、口元には言葉にならぬ感情のかすかな波が浮かんでいる。頬に触れる手の柔らかさは、まるで自身の存在を確かめるようでもあり、何かを思い出すようでもある。
しかし、ここで描かれる「内面」は、19世紀的な心理描写としてのそれとは異なる。ルノワールの描く女性像は、常に個人の物語から解き放たれている。むしろ、思考の一歩手前にある「感じること」「佇むこと」といった、人間存在のプリミティブな次元が前景化されているのだ。
この沈黙と内省のありようは、印象派の「瞬間の光」を超え、永遠の時に身を委ねるような姿勢へと変貌している。彼女は語らず、動かず、ただそこにいる。その沈黙は観者の思考を誘導する余白であり、見る者の感覚を深く静かなところへと引きずり込んでゆく。
2025年、東京・三菱一号館美術館で開催される展覧会「ルノワール×セザンヌ―モダンを拓いた2人の巨匠」において、本作が展示される意義は大きい。セザンヌが同時代において追求した「構造としての絵画」「秩序としての自然」に対し、ルノワールは「感覚としての絵画」「肉体としての自然」を徹底した。その両者の違いが、かえって20世紀美術の多様性の根をなしている。
セザンヌが風景や静物において空間の緊張と構築性を示し、抽象絵画の先駆者として未来を切り拓いたのに対し、ルノワールは肉体と感触を軸とした感性の深度に潜り込み、絵画を官能と生命の場へと変貌させた。《頬づえをつく女》は、その成果を象徴する作品であり、近代美術が「人間のまなざし」をどう保ち得るかという問いへの一つの回答でもある。
《頬づえをつく女》は、単なる女性像にとどまらず、画家自身の存在をも鏡のように映している。老い、病、時の流れ——それらの現実を前にして、なおも美と光を信じ、筆を執り続けたルノワール。その晩年の作品群は、いわば「老いの美学」そのものであり、人間が生きることの根源的な意味を、静かに、しかし力強く照射している。
画面に差し込むやわらかな光は、もはや太陽の光ではなく、画家自身の内側から発せられる「見る力」の光であろう。頬に手を添えた女性の沈黙は、見る者の心をそっと撫で、語りかける。「あなたもまた、そこにいる」と。
それは、絵画という形式の中で、最も純粋な人間の肯定であり、ルノワールが生涯をかけて到達した、最も静謐で深い愛のかたちである。
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