【羊の剪毛】ジョヴァンニ・セガンティーニー国立西洋美術館所蔵

【羊の剪毛】ジョヴァンニ・セガンティーニー国立西洋美術館所蔵

アルプスの風とともに

セガンティーニの作品《羊の剪毛》

ジョヴァンニ・セガンティーニは、19世紀末のヨーロッパ美術において特異な光を放つ画家である。自然と人間の関係を静かに、しかし確かな筆致で描いたその作品群は、アルプスの山々を背景に、日々の営みの尊さをしみじみと伝えてくれる。その初期を代表する作品の一つが、《羊の剪毛》である。本稿では、作品の背景、技法、画家の生涯、額装の歴史など多角的な視点からこの絵画を紐解いていく。

セガンティーニは1858年にイタリアのアルコ(当時はオーストリア領)に生まれた。幼くして両親を失い、孤児として辛苦の日々を過ごした彼は、数奇な運命の末に美術学校に進み、次第に画家としての道を歩み始める。特筆すべきは、その作品の多くが北イタリアやスイスの山岳地帯を舞台としている点である。都会から遠く離れた山里の静かな生活に、彼は芸術の本質を見出した。

本作《羊の剪毛》は、そんなセガンティーニの自然へのまなざしがすでに明確に現れている初期の傑作である。制作年は1883–84年、彼がまだミラノに拠点を置いていた時期にあたる。この頃のセガンティーニは、フランスのバルビゾン派やジャン=フランソワ・ミレーなどの影響を強く受けており、農村の風景や労働の光景を詩的に描く手法を模索していた。

本作には、アルプス山麓の牧場で羊の毛を刈る人々の姿が描かれている。構図は比較的簡潔で、手前には座り込んだ人物と数頭の羊、奥には緑の草地と山々が広がっている。中央には毛刈りをする人物の背中が大きく配され、その慎重な動作が画面全体に静けさをもたらしている。

色調は穏やかなアースカラーで統一され、自然光が柔らかく物体に降り注いでいる様子がわかる。画面左手には、羊の毛をまとめる女性の姿も確認できる。このように、セガンティーニは単に労働の一瞬を切り取るのではなく、それが自然のサイクルの一部であることを感じさせるように構図を整えている。

注目すべきは、人物たちの顔がほとんど描き込まれていない点である。これは、彼らを特定の個人としてではなく、地域に根ざした生活そのものとして象徴化する意図があったと考えられる。描写は写実的でありながら、そこにはどこか宗教的とも言える崇高さが漂っている。

セガンティーニは、この時期にバルビゾン派から強い影響を受けていた。バルビゾン派とは、19世紀半ばのフランスで自然主義的風景画を追求した画家たちであり、彼らはサロンの理想主義から離れ、現実の自然と労働の美を求めた。ジャン=フランソワ・ミレーの《落ち穂拾い》や《晩鐘》などは、その代表的な作品である。

《羊の剪毛》もまた、そうした伝統に連なる作品と言える。しかし、セガンティーニの描く風景は、より明るく、より開かれている。バルビゾン派がしばしば曇り空や夕暮れを背景に選んだのに対し、セガンティーニの画面には高原の爽やかな空気が満ちている。これは、彼自身がアルプスの自然に深い愛着を抱いていたことと無関係ではないだろう。

彼の絵において、自然は単なる背景ではない。人間の生活そのものと等価であり、時にそれ以上の存在感をもって画面に立ち現れる。《羊の剪毛》においても、人物と動物、そして風景がひとつの静かなハーモニーを奏でているように感じられる。

この作品は、戦前の日本において美術品収集家として名高い松方幸次郎によって入手された。彼は西洋美術を日本に紹介することに情熱を傾け、多くの名画を購入したことで知られている。とりわけ、フランス印象派やイタリアの風景画に関心をもち、セガンティーニの作品もそうした収集の中で選ばれた一枚だった。

《羊の剪毛》は、1918年頃に松方の手に渡り、後に旧松方コレクションの一部として伝えられた。戦後、一部の作品が行方不明となるなか、この作品は長く所在不明であったが、2007年に国立西洋美術館に収蔵されることとなった。以来、同館のコレクションの中でも特に人気のある作品の一つとなっている。

興味深いのは、この作品がもともと飾られていた額の存在である。収蔵後、長らくシンプルな無装飾の鍍金額に入れられて展示されていたが、2024年度に本来の古額が修復され、再び作品に合わせて額装された。元の額は、ルイ14世様式のリヴァイヴァル額であり、重厚でありながら華やかな装飾が施された高品質なものだった。

同様の額縁は、松方が所蔵していたもう一枚のセガンティーニ作品《風笛を吹くブリアンツァの男たち》(P.19624)にも見られる。こうした額装からは、セガンティーニ自身がこの様式を好んでいたことがうかがえる。19世紀末のヨーロッパにおいて、絵画はしばしばサロン額と呼ばれる華美な額装によって装われ、作品の存在感をより高めていた。《羊の剪毛》もまた、絵画と額縁が一体となって、芸術としての完成度を高めているのである。

セガンティーニの作品は、華やかな歴史画や都市の風景といった当時主流であった題材とは一線を画し、日常のなかにある真実と美しさを追求していた。彼は生涯を通じて、山の中で暮らす人々の労働、季節の移ろい、そして生と死の循環といったテーマを、詩的なビジョンとして描き出した。《羊の剪毛》も、その一端を成すものであり、観る者に静かな感動を与える。

今日、AIやグローバリゼーションが進む時代にあって、こうした素朴な営みの風景はかえって新鮮に映る。そこには人間の根源的な営みの尊さ、自然との共生の大切さが表現されているからだ。セガンティーニが筆に託したまなざしは、時代を越えて私たちに問いかけている。「本当に大切なものは何か」と。

ジョヴァンニ・セガンティーニの《羊の剪毛》は、画家の自然への愛、農村生活への共感、そして芸術的な構成力が結実した一枚である。それは単なる写実を超え、時代と場所を越えて人々の心に訴えかける力を持つ。この作品が日本に伝えられ、今も国立西洋美術館で私たちを静かに迎えてくれることは、きわめて幸運なことである。ぜひ一度、その前に立ち、アルプスの風を感じながら、羊たちと人々が織りなす穏やかな時間に身を委ねてみてほしい。

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