
音楽と劇場のミューズ
ユベール・ドルーエの作品《シャルル=シモン・ファヴァール夫人の肖像》
18世紀フランスのロココ芸術が花開いた時代、その舞台の中心には、雅やかで、時に大衆的な文化を支えた芸術家たちがいました。中でも音楽と演劇の世界でひときわ輝きを放った人物が、マリー=ジュスティーヌ=ブノワット・デュロンセレ)――すなわち、シャルル=シモン・ファヴァール夫人です。彼女の肖像を描いたのが、当時の宮廷や社交界で活躍した肖像画家、ユベール・ドルーエでした。
この作品《シャルル=シモン・ファヴァール夫人の肖像》(1757年頃制作、)は、音楽家であり、俳優であり、そして時代のアイコンでもあった女性の姿を、美と知性、静けさと表現力を織り交ぜて描いた逸品です。その柔らかな筆致と情感豊かな眼差しは、18世紀の女性芸術家がどのように社会と向き合い、舞台の内外で存在感を放っていたのかを語りかけてくるようです。
モデル:シャルル=シモン・ファヴァール夫人とは誰か
この絵のモデルとされるマリー=ジュスティーヌ=ブノワット・デュロンセレは、18世紀フランスで高名な女優、歌手、舞踊家として広く知られていました。芸名はそのまま本名が使われることが多く、演劇や音楽の舞台では「マドモワゼル・デュロンセレ」と呼ばれ親しまれていました。
1745年、彼女は著名な劇作家でありオペラ=コミック(喜劇オペラ)の父と称されるシャルル=シモン・ファヴァールと結婚します。これにより、夫人としての社会的地位と、舞台上での創造的自由を併せ持つ稀有な存在となりました。
彼女の最も代表的な舞台出演の一つは、1753年の作品《バスチアンとバスチエンヌの恋》(Les Amours de Bastien et Bastienne)です。このオペラ=コミックにおいて、彼女は舞台上で本物の農民衣装を着て登場し、当時の人工的な舞台衣装に対する新しい潮流を生み出しました。この「リアリズム」の志向は、後の舞台演出にも大きな影響を与えたとされています。
画家ユベール・ドルーエと肖像画の時代
この肖像を描いたユベール・ドルーエは、ルイ15世の時代に活躍した肖像画家で、宮廷や貴族階級、舞台関係者からの注文を多く受けていました。彼は特に、音楽家や俳優、バレリーナといった芸術家階層の肖像画を得意としており、ただの似顔絵ではなく、人物の精神性や職業的アイデンティティまでも写し取るような作品を残しています。
ドルーエはロココ様式の流麗さと、細密な筆致による肖像の明快さを併せ持っており、その画風はヴァトーやブーシェに通じる繊細さと優美さを兼ね備えています。
音楽の女神としてのイメージ
本作《シャルル=シモン・ファヴァール夫人の肖像》には、モデルが鍵盤楽器に向かう姿が描かれています。これは単なる日常的な場面ではなく、彼女の音楽家としての才能を象徴的に示す演出です。
さらにこの構図は、伝統的に「音楽の守護聖人」とされる聖セシリア(Saint Cecilia)の肖像表現とも強く重なります。聖セシリアは初期キリスト教の殉教者で、音楽家たちの守護聖人とされ、鍵盤楽器やリュートとともに描かれることが多くあります。ドルーエはこの宗教的な図像を借用することで、ファヴァール夫人に芸術の神聖性を仮託し、彼女の表現者としての気高さと尊厳を伝えようとしたのです。
これは当時の芸術家にとって非常に重要なメッセージであり、特に舞台に立つ女性たちが「ただの娯楽の提供者」ではないことを視覚的に強調する意義を持っていました。
肖像画としての表現:静けさと知性の融合
この絵の最大の魅力は、なんといってもファヴァール夫人の表情にあります。彼女は観客(つまり鑑賞者)を正面から見つめながらも、その視線には控えめな優しさと内面からにじむ自信が感じられます。
衣装は豪華でありながら決して派手ではなく、首元にあしらわれたレースや、髪を飾る花々がロココらしい柔らかさを醸し出しています。色彩は淡いパステル調でまとめられ、背景は控えめでありながら、チェンバロの存在感が画面に奥行きを与えています。
また、彼女の右手が鍵盤に軽く触れている様子は、あたかも次の旋律を思い描いているようにも見え、芸術家としての創造的瞬間を静かに写し取っているのです。
舞台芸術と社会的地位:18世紀の女性芸術家たち
18世紀フランスにおいて、女優や歌手として名を馳せることは一種の名誉であると同時に、道徳的な偏見や社会的な制限とも背中合わせでした。特に女性芸術家に対しては、「芸能人」としての名声の裏に、常にスキャンダルや貴族との関係性が噂されるなど、社会的な安定を得にくい立場でもありました。
そうした中で、シャルル=シモン・ファヴァールのような知識人と結婚し、なおかつ芸術家としての活動を継続し続けたマリー=ジュスティーヌは、ある意味でこの時代の「新しい女性像」を体現していたと言えるでしょう。
ドルーエの描いたこの肖像画には、そうした彼女の複雑な立場――芸術家であり妻であり、一人の知的な女性である――を静かに、しかし明確に伝える力があります。
美術館と後世の評価
現在この肖像画はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵され、18世紀のフランス美術を代表する肖像画のひとつとして公開されています。鑑賞者にとっては、単なる過去の人物像ではなく、当時の音楽文化、演劇、女性の社会的立場を総合的に知るための貴重な資料ともなっています。
肖像画というジャンルは、その人物の外見を記録するだけでなく、「どう記憶されたいか」「どう記憶されるべきか」という自己表象の戦略でもあります。ファヴァール夫人のこの肖像は、まさにそうした戦略の成功例といえるでしょう。
結びにかえて:芸術の記憶装置としての肖像画
ユベール・ドルーエの《シャルル=シモン・ファヴァール夫人の肖像》は、単なる18世紀の一女優の肖像ではありません。それは、演劇と音楽に生きた一人の女性が、自身の芸術的存在を社会にどう伝え、どう記憶されるべきかを体現した視覚的な声明です。
柔らかくも芯のあるまなざし、音楽のひとときを切り取ったかのような静謐な構図、そして聖セシリアを思わせる神聖な象徴性――それらがひとつとなり、肖像画という枠を超えて、時代と人物の記憶を現代に届けてくれるのです。
私たちがこの絵を見るとき、そこには「過去の人」ではなく、芸術とともに生きた一人の女性の息遣いが、今なおそっと響いているのです。
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (0)
この記事へのコメントはありません。