【女官と鳥図皿(Plate with Japanese Court Woman and Birds)】伊万里焼ーメトロポリタン美術館所蔵

女官と鳥図皿
源氏物語を映した磁器の詩
ひと皿に宿る千年の物語
わずか直径12.4センチという小ぶりな伊万里焼の皿に、千年の時を超えて日本文学の古典『源氏物語』の一場面が描かれている――それが、メトロポリタン美術館に所蔵されている「女官と鳥図皿(にょかんととりずざら)」です。1710年から1730年ごろに制作されたこの磁器皿は、江戸時代中期の日本で生まれ、西洋へと旅立った輸出伊万里のひとつであり、当時の日本文化とヨーロッパの好奇心が交差する象徴的な作品といえます。
この作品に描かれているのは、優雅な女官が庭で鳥を放つ姿。これは紫式部によって11世紀に書かれた世界最古級の長編小説『源氏物語』の第五帖「若紫」に触発された場面とされており、日本的な風雅と文学的背景をたたえた、きわめて珍しい意匠です。
『源氏物語』という深遠な源泉
紫式部とその時代
『源氏物語』は、平安時代中期、宮廷に仕える才媛・紫式部(973頃–1014頃)によって書かれた全54帖からなる長編物語です。光源氏という貴公子の恋愛遍歴と栄華、そしてその子や孫の世代にわたる人間模様が繊細に描かれており、日本文学史上屈指の傑作とされています。
その物語は恋愛だけでなく、無常観、階級社会、宮廷儀礼、美意識など、平安貴族の精神風土を細やかに反映しており、単なる「ロマンス」ではなく、日本の古典文化のエッセンスが凝縮された作品でもあります。
女官と鳥の場面──第五帖「若紫」
「女官と鳥図皿」のモチーフとされるのは、第五帖「若紫」の一場面です。光源氏が北山の山荘を訪れた際、垣間見た少女が、手にした鳥かごから鳥を放す姿に心を奪われる――という、いわば「ひとめぼれ」の瞬間を描いた場面です。
この場面は、ただの情景描写ではなく、物語の鍵となる若紫(のちの紫の上)との運命的な出会いを象徴する重要なシーンです。鳥を放つという行為は、束縛からの解放、美しさと儚さ、そして人の思いが空へと解き放たれる比喩でもあります。
この詩的な瞬間を、色絵磁器の表面に再現しようとした意匠には、文学と工芸が交差する美意識が宿っています。
伊万里焼と輸出文化
肥前・有田で生まれた世界的磁器
「女官と鳥図皿」は、肥前(現在の佐賀県・長崎県の一部)に位置する有田地方で焼かれた伊万里焼の一つです。有田では17世紀初頭から磁器生産が始まり、やがて長崎を通じてオランダ東インド会社によりヨーロッパ各地へと輸出されていきました。
この時代の伊万里焼は「金襴手(きんらんで)」に代表されるような、赤・青・金を多用した豪華な色絵磁器が主流であり、中国磁器の代替品として重宝されました。その中で、「女官と鳥図皿」は、華美な装飾とは一線を画した、日本独自の文化表現を意識的に反映した輸出用磁器としてきわめて特異な存在です。
ヨーロッパの驚きと熱狂
18世紀初頭、ヨーロッパの王侯貴族たちは、東洋からもたらされた精緻な磁器に熱狂しました。日本の磁器は、その独特の文様、精巧な技法、そして異国的な風景や人物像に魅了され、室内装飾や食器セットの一部として大いに重宝されたのです。
しかし、当時のヨーロッパ人にとって、「源氏物語」や「女官」「鳥を放つ」という情景の意味を理解することは難しかったはずです。にもかかわらず、その構図の優雅さ、身振りの美しさ、庭園風景の静謐さは、それだけで十分に魅力を放っていました。こうして、「女官と鳥図皿」は、日本文化の精髄が視覚化された「詩のような皿」として、異文化に感銘を与えたのです。
意匠の解釈と技術の粋
構図と装飾の特徴
この皿に描かれた女官は、細く長い袖を持つ衣装をまとい、うつむき加減に佇む姿で表されています。庭園の一角には草木や築山が配され、穏やかな自然の中で、女官が鳥籠をそっと開け放つような仕草が描かれています。
構図は全体的に非対称で、中心をあえて外すような日本画特有の空間表現が採用されており、静寂と余白の美が際立ちます。小さな直径の皿でありながら、そこに描かれる情景は、まるで一幅の物語絵巻のような奥行きを持っています。
色絵技法と焼成の妙
この皿は「硬質磁器」に該当し、透光性のある白磁肌の上に、色絵(上絵付け)による繊細な装飾が施されています。透明釉の上から焼き付けられた色絵は、赤、緑、黄、青などの柔らかな発色を持ち、上品かつ落ち着いた雰囲気を醸し出しています。
特に注目すべきは、皿の小ささにもかかわらず、筆致が極めて細やかである点です。衣装の文様、鳥の羽、草木の描写など、一つひとつの線に職人の高度な技術と、物語を描き出す想像力が込められていることがわかります。
文学と工芸の融合という意義
「女官と鳥図皿」は、単に技巧の粋を凝らした工芸品ではなく、日本の文学的伝統を視覚芸術として昇華させた点において特別な意味を持ちます。磁器という限られた素材の中で、『源氏物語』の一場面を再構築し、それをヨーロッパに届けるという行為は、当時の日本がいかに高度な文化を有していたかを物語っています。
また、絵画や書画と異なり、磁器は「使う」ことを前提とした実用品でもあります。この皿もまた、かつては誰かの食卓を彩り、あるいは飾棚に置かれていたことでしょう。そこに、日常のなかで文学と美術が自然に交差していた日本文化の姿を見ることができます。
器に映る詩情と時間
今日、私たちがこの「女官と鳥図皿」を眺めるとき、そこにはただ美しい絵柄があるだけではありません。11世紀の宮廷文学、18世紀の輸出磁器、21世紀の美術館展示という三つの時代が重なり合い、一つの小さな器に封じ込められた時空の交差点が開かれているのです。
鳥かごの扉が開くその瞬間のように――日本の美、詩情、そして文化の奥深さが、異国の人々の心へと羽ばたいていった。その象徴こそが、この「女官と鳥図皿」なのです。

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