自画像
五十歳の眼差しに刻まれた黒田清輝の精神

　1915年、大正という新しい時代の空気が日本社会に広がり始めた頃、黒田清輝は自らの肖像を静かに描き留めた。《自画像》と題されたこの作品は、数え年で五十歳を迎えた画家が、自身の半生と向き合いながら筆を取ったものである。現在、東京・上野の黒田記念館に所蔵されるこの一作は、日本近代洋画の形成に決定的な役割を果たした黒田という存在を、最も凝縮されたかたちで伝えている。

　黒田清輝は、日本における洋画受容の初期段階において、単なる技法の紹介者にとどまらず、制度と思想の両面から美術界を支えた人物であった。フランス留学を通じて身につけた写実的表現と外光表現を、日本の風土と感性に適応させ、「外光派」と呼ばれる新しい潮流を確立した功績はよく知られている。しかし《自画像》が示すのは、改革者としての華やかな側面ではなく、成熟した一人の画家が内面へと沈潜していく静かな姿である。

　画面は驚くほど簡潔である。背景は抑制された色調でまとめられ、余計な物語性を排して、人物像そのものを際立たせている。黒田は上半身のみを描き、身体をわずかに斜めに構え、視線を正面から外している。その眼差しは鑑賞者を強く射抜くものではなく、むしろ自己の内奥へと向けられているように見える。この距離感が、作品全体に沈着な思索の気配を与えている。

　表情は穏やかでありながら、緊張を孕んでいる。口元は引き締まり、眉間にはかすかな皺が寄る。その顔貌からは、自己肯定と同時に、時代を背負う者としての責任感が読み取れる。日本美術の進路を担う立場にあった黒田にとって、この自画像は、私的な肖像であると同時に、公的な覚悟の表明でもあったのだろう。

　色彩は、黒田の代表作に見られる明快な外光表現とは異なり、全体に落ち着いたトーンで統一されている。灰色を含んだ青や褐色が背景を構成し、肌の色も過度な明るさを避け、陰影によって静かな立体感が与えられている。この抑制された色調は、感情の高揚よりも、精神の深度を重んじる姿勢を明確に示している。

　筆致に注目すると、顔の描写には確かな観察に裏打ちされた緻密さがあり、一方で衣服や背景には、あえて筆の運動を残した部分も見られる。この描写の緩急は、黒田が写実と表現の均衡をどれほど重視していたかを雄弁に物語る。すべてを磨き上げるのではなく、必要なところにのみ集中する判断力は、円熟期の画家ならではのものといえる。

　この自画像について、洋画家・中村研一が残した回想は示唆的である。彼は学生時代、黒田の画室に飾られていたこの肖像を見て、作品と実像とが驚くほど一致していたと述べている。そこから浮かび上がるのは、理想化や誇張を排し、ありのままの自己を画面に定着させようとした黒田の誠実さである。

　1915年という時代背景も、この作品の理解に欠かせない。大正デモクラシーの胎動期にあって、個人の自覚や精神の自由が語られ始めた時代、黒田は日本美術界の「正統」として確固たる位置を占めていた。そのような立場にありながら、彼は権威を誇示することなく、静かに自己を見つめる姿を選んだ。その態度は、指導者としての矜持と同時に、芸術に対する謙虚さをも感じさせる。

　五十歳という年齢は、黒田にとって過去の成果を総括し、未来を見据える節目であった。《湖畔》や《読書》に代表される名作をすでに世に送り出し、美術教育や行政にも深く関わっていた彼は、この自画像において、次代へと託すべき理念を無言のうちに示している。それは、技巧の誇示ではなく、精神の持続を重んじる絵画観である。

　《自画像》は、黒田清輝という画家の外面的な肖像を超え、その内的な構造を映し出す鏡のような作品である。静かな色調、抑制された構図、内省的な眼差し――それらはすべて、日本近代洋画の基礎を築いた一人の芸術家が到達した、精神的成熟の証しといえるだろう。