
明治時代の日本美術史において、洋画の確立と発展に多大な貢献を果たした画家、黒田清輝(1866年–1924年)は、日本近代洋画の父とも称される存在である。その黒田が、パリ留学から帰国した後の重要な制作の一つである《夏図》に先立ち描いた画稿、「女の顔」(1892年、紙・木炭、黒田記念館蔵)は、完成作と比較しても独立した価値を有する作品である。本稿では、この画稿がもつ意義を多角的に考察し、日本近代絵画における一里塚としての位置づけを明らかにしたい。
黒田清輝は、1884年(明治17年)、法律の勉学を志してフランスへと留学したが、パリ滞在中に画家ラファエル・コランの教室に入り、本格的に絵画の修行を積んだ。彼は西洋近代絵画、特にアカデミスム的な描法と印象主義の要素を日本に紹介し、従来の写実主義とは一線を画す新たな表現を確立していった。
1893年(明治26年)にシカゴ万国博覧会に出品され、同時に日本国内でも注目を集めた代表作《朝妝》(1893年)は、パリ時代に培った明るい色彩と柔らかな筆致による女性像の到達点であった。この作品に先立つ準備段階で描かれたのが、《夏図》であり、そのさらに初期段階における人物習作が、ここで扱う「女の顔」の画稿である。
本作品は、木炭によって描かれた女性の顔の習作である。木炭は、デッサンの初期段階において、形態を捉えたり陰影を確かめたりするために用いられることが多い。画面は、比較的薄手の紙に、やや粗い木炭線が軽やかに走っており、モデルとなった女性の柔和な表情と、やや遠くを見るような視線の方向が印象的である。
木炭の線はしばしば修正の跡を残しながら、繰り返し重ねられている。これは、画家が一回で輪郭を定めるのではなく、観察を重ねながら構造を探っていたことを示す。このような描写方法は、アカデミーでの伝統的なデッサン教育に基づいたものであり、黒田が受けたフランス的訓練の確かさを物語る。
この「女の顔」の画稿において、注目すべきはその表情である。唇はわずかに閉じられ、頬にはやや温もりが感じられる陰影が施されており、目元には静かな知性と内省的な感情が宿っている。パリの画塾における女性モデルの写生経験が活かされた表情描写であり、明治期の日本画には見られない自然な顔貌表現が試みられている。
また、女性の髪型や輪郭の描写には、日本的な要素よりも西洋的なリアリズムが強く出ている。これは、のちの《夏図》における裸体女性像の主題と通底しており、黒田の絵画における「女性性」表現の萌芽を感じさせる部分でもある。
《夏図》は、黒田が日本において最初に手がけた裸体画の試みであり、従来の日本美術においてほとんど例のなかった大胆な構図と西洋的主題で注目された。とくに、画中の女性の身体が自然光のもとに柔らかく描かれており、背景には木陰や水辺が描き込まれていることから、季節感とともに身体の存在感が際立っていた。
この「女の顔」画稿は、そのような完成作品に至る構想段階で、表情や頭部のバランス、陰影の付け方などを検討するために描かれたと考えられる。すなわち、《夏図》の全体像を構成するうえで、個々の部分がどのように練られていたのかを知るうえで極めて貴重な資料である。
明治時代は、国家の近代化とともに、美術教育制度も整備され、西洋画法の導入が進められていった。しかし、裸体表現に対しては、依然として強い社会的な抵抗感があった。《夏図》やそれに付随する画稿の存在は、黒田が単に西洋画法を技術的に導入しただけでなく、西洋的な「美の観念」そのものを日本に紹介しようとした証左である。
《夏図》の完成作品では裸体が大胆に描かれていたことから、一部ではスキャンダラスに受け取られたこともあった。だが、それを可能にしたのは、このような入念な準備画稿によって、人体の構造や表情の説得力を画面に与えることができたからである。この点において、「女の顔」画稿の美術史的意義は大きい。
黒田清輝が師事したラファエル・コラン(Raphaël Collin)は、アカデミックな技法と印象主義的光表現を融合させた画風で知られる。その影響は、黒田の多くの作品に見られるが、とりわけ人物の表情や肌の描写において顕著である。
この画稿に見られる柔らかい陰影の付け方、遠近感の把握、モデルへの共感的な眼差しなどは、コランに学んだ方法論に則っている。したがって本作は、黒田が「日本の中におけるフランス美術の翻訳者」であったことを象徴する作品とも言えよう。
1896年に東京美術学校(現・東京藝術大学)の教授に就任した黒田は、アカデミックなデッサン教育を重視し、多くの後進に影響を与えた。この画稿が示す木炭デッサンの精緻な構造は、彼自身がデッサンを絵画の基本と考えていたことの証左でもある。
このような下絵・画稿を通じて、単なる模写ではなく、「構造としての顔」「精神を宿す顔」を描こうとする姿勢は、後の東京美術学校の教育方針にも強い影響を与えた。
本作品は現在、東京都台東区にある黒田記念館(東京国立博物館)に収蔵されている。同館は黒田の遺族より寄贈された作品群とともに、彼の画業を今日に伝える貴重な拠点である。
画稿という性格上、一般の展覧会ではあまり表に出ることが少ないが、研究者の間では《夏図》の成立を理解するうえで極めて重要な資料とされており、黒田清輝の制作過程を追ううえで欠かすことのできない作品とされている。
黒田清輝の《夏図》画稿(女の顔)は、完成作品東京国立博物館の背後にある熟慮と観察の成果を如実に示す、静謐かつ力強いデッサンである。それは単なる準備段階の一部にとどまらず、黒田がいかにして西洋の美術思想を日本の文脈に根付かせようとしたかを読み解く鍵でもある。
この作品に込められた視線、線の躍動、形態の探求は、明治という変革期における一人の画家の試みと苦悩、そして革新への意志を現代の私たちに静かに語りかけてくれる。
コメント
トラックバックは利用できません。
コメント (0)
この記事へのコメントはありません。