【フェイディアスの習作】ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルーサンディエゴ美術館所蔵

【フェイディアスの習作】ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルーサンディエゴ美術館所蔵

ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル(1780年–1867年)は、19世紀フランスを代表する新古典主義の画家であり、ラファエロや古代ギリシャ・ローマ美術を理想として、厳格な線描と構成美を重視した作品を多数制作しました。彼の芸術観は、ロマン主義的傾向が強まっていた同時代の流れとは一線を画し、古典的理想美を近代に再現しようとする執念に貫かれています。そんなアングルの創作態度が如実に表れているのが、本作《フェイディアスの習作》(Étu​de de Phidias)です。この作品は、1827年に描かれた頭部の素描に始まり、晩年の1866年にそれを拡張する形で完成された習作であり、彼の制作過程や芸術的理念を知るうえで貴重な作例となっています。

《フェイディアスの習作》は、アングルが1827年にフランス政府の依頼で制作した大作《ホメロスの礼賛》(L’Apothéose d’Homère)に由来します。《ホメロスの礼賛》は、古代ギリシャの叙事詩人ホメロスを中心に、歴史上の偉人たちが集い彼を讃えるという構図をもった壮大なアレゴリー作品であり、アングルが長年にわたり追い求めてきた古典的理想を結実させた代表作の一つです。

この作品には、詩人や哲学者、芸術家など、古今東西の文化的英雄たちが登場しますが、その中の一人として、古代ギリシャの彫刻家フェイディアス(Phidias, 紀元前5世紀)が描かれています。フェイディアスは、アテナ像やゼウス像などを手がけたことで知られ、古典ギリシャ彫刻の理想を体現した芸術家とみなされており、アングルにとってまさに「古典の化身」とも言える存在でした。

アングルは、フェイディアスの姿を描くにあたって、その肖像を正確かつ威厳あるものにしようと、まず頭部の習作を描きました。1827年に制作されたこの頭部は、極めて詳細で精緻な線描によって表現されており、内面的な知性と創造力がにじみ出るような造形となっています。巻き毛や額の表現、鼻梁の通り方、瞳の描写など、古典彫刻の様式を取り入れつつも、画家の内面から湧き出る理想化が加えられ、まさに「アングル的古典美」が強く反映された肖像となっています。

アングルは、《ホメロスの礼賛》のために数多くの習作を制作しており、頭部の素描もそうした準備作業の一環であったと考えられますが、この頭部はとりわけ丁寧に描かれ、彼自身の記憶に強く残るものだったと思われます。

それから約40年の時を経て、アングルは1866年、86歳のときにこの頭部素描を再び取り上げ、別のカンヴァスに貼り付ける形で腕や手、衣服の部分を描き加えて作品を完成させました。この作業は、単なる模写や加筆ではなく、むしろ「再構成」と言えるプロセスであり、アングルが晩年に至ってもなお理想美の追求をあきらめなかったことを示す象徴的な出来事といえるでしょう。

描き足された身体の部分には、フェイディアスが彫刻を前にし、指先で軽く触れながら創作に没頭する姿が表現されています。特に注目すべきはその右手で、慎重に何かを測り、試しているような仕草を見せており、職人としての技術と芸術家としての直感が交錯する瞬間を捉えています。このようにして、単なる肖像を超えて「芸術家としてのフェイディアス」が具現化されているのです。

《フェイディアスの習作》は、新古典主義の美学を如実に反映した作品です。第一にその構成は非常に明快で、中心に人物が安定して配置され、背景にはあえて装飾を排し、人物の存在感が際立たせられています。第二に、線描の緻密さと正確さ、そして人体の構造に対する深い理解が作品に秩序と重厚さを与えています。

アングルは、色彩よりも線を重視する「デッサン主義」の立場を取りましたが、この作品においてもその傾向が強く、明暗の差も穏やかで、まるで彫刻作品を思わせるような質感が生まれています。フェイディアスという「彫刻家」を描くにあたって、あえて絵画を彫刻的に構成するという、アングルの美学的意図が強く働いていると考えられます。

また、フェイディアスの姿は写実というより理想化されており、ギリシャ彫刻のような均整のとれた顔立ちと肉体が描かれています。これは、アングルが描こうとしたのが「歴史上の人物としてのフェイディアス」ではなく、「芸術そのものを体現する象徴としてのフェイディアス」であったことを示しています。

この作品の最大の魅力の一つは、アングルの制作プロセスを直接的に垣間見ることができる点にあります。通常、習作や下絵は完成作の背後に隠れてしまうものですが、この《フェイディアスの習作》は、習作(1827年)と完成形(1866年)が一体化した珍しい例であり、アングルがどのように初期構想を晩年の完成作へと昇華させたのか、その手順と美意識を追体験することができます。

また、アングルの芸術観や人物造形に対する態度を知る貴重な資料として、彼の芸術思想を研究するうえでも極めて重要です。実際、彼は生涯にわたりラファエロや古典彫刻を崇拝しており、それらを再構成し続けることで「永遠の美」を追い求めていたことがわかります。

《フェイディアスの習作》は、単なる肖像画でもなく、完成された歴史画の一部でもありません。しかし、この作品にはアングルの全芸術が凝縮されています。古典的理想を求め続けた信念、時を超えて制作を継続する意志、そして描かれる対象に対する深い敬意と愛情——それらすべてがこの一枚に込められているのです。

本作は現在、アメリカ・カリフォルニア州のサンディエゴ美術館に所蔵されており、その繊細さと力強さを今に伝えています。アングルの芸術が単なる技巧の集合ではなく、理念と精神の結晶であることを、本作品は雄弁に物語っています。

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