
カジミール・マレーヴィチの1933年に制作された「自画像(アーティスト)」は、彼の後期の作品における重要な転換点を示す作品であり、彼の芸術における新たな視点を反映しています。この自画像は、彼のシュプレマティズムから遠く離れた、象徴的でありながら深い意味を持つ自己表現の一形態として注目されています。
カジミール・マレーヴィチは、シュプレマティズム運動の創始者として、抽象芸術と幾何学的な形態の探求を行い、20世紀美術に革命的な影響を与えました。「黒の正方形」や「白の正方形」などの作品は、物理的世界からの解放と、色彩や形状の純粋な力を表現することを目指しました。しかし、1930年代に入ると、マレーヴィチの作品には次第に変化が現れます。ソビエト政府による前衛芸術の抑圧や社会主義リアリズムの支配が進む中で、マレーヴィチは抽象芸術から離れ、より具象的で写実的な表現へとシフトしました。これらの後期の作品は、彼の個人的な歴史や内面的な葛藤、そしてその時代の政治的状況との関わりを反映しています。
「自画像(アーティスト)」もその一つであり、シュプレマティズムという前衛的なスタイルから離れ、象徴的でありながらも新たな自己像を提示する作品となっています。この作品は、単なる肖像画ではなく、マレーヴィチの芸術的アイデンティティや哲学的な理念を深く掘り下げた一枚です。
「自画像(アーティスト)」は、オイル・キャンバスに描かれた作品で、彼が自己を表現するために選んだ視覚的言語は非常に特異です。まず、目を引くのは、マレーヴィチ自身がイタリアのドージェ(海上共和国の指導者)として描かれている点です。ドージェの衣装は非常に几帳面で幾何学的な構造を持ち、黒、白、赤、緑といった鮮やかな色が使われています。この衣装の選択は、彼が自らをどのように象徴化しているかを示す重要な要素です。
マレーヴィチの姿勢と表情も注目に値します。彼は威厳を持って直立し、まるで神聖な存在を象徴するかのような手の位置をしています。この手の構えは、聖人像に見られるものと似ており、日常的な人物の肖像画としては異常なまでに崇高で象徴的です。手が持つ意味は、まるで目に見えない書物を抱えているかのようで、マレーヴィチ自身が芸術を通じて次の世代に何かを伝えようとしていることを暗示しています。このポーズと表情は、彼がアーティストとしての自己像をどのように構築しているかを示す重要な手がかりです。
また、背景にはレオナルド・ダ・ヴィンチやラファエロのルネサンス時代のフレスコ画を彷彿とさせる要素が見られ、マレーヴィチがこの時期においてもクラシックな伝統に対する強い関心を持ち続けていたことが分かります。彼の表現は、純粋な抽象から具象的な表現へと移行し、自己の芸術的遺産に対する敬意が表現されています。
「自画像(アーティスト)」は、単なる外見の表現ではなく、マレーヴィチが自身の芸術哲学を語るための手段として重要です。この絵において、マレーヴィチは「アーティスト」を超えて、「創造主」として自己を位置づけています。彼は、芸術家としての自己を神聖化し、創造的な行為がもたらす高次の知識や自由を象徴しています。彼の手のジェスチャーは、まるで創造的な力を掌握しているかのように見え、これがシュプレマティズムにおける「物のない世界」の概念と結びついています。シュプレマティズムでは、物質的世界を超えた純粋な形態と色が「真の現実」であるとされ、マレーヴィチはこの思想を自己表現を通じて具現化しています。
また、マレーヴィチは自身を「宇宙の大統領」として自称していたことからも、彼の自己像がいかに崇高であり、同時にユーモラスであるかが分かります。この自己神格化は、彼の死後における神話的な存在の創出を意図したものであり、自己の後継者に向けたメッセージとして重要な意味を持っています。彼は生前に直面した困難や創作への内面的な矛盾を乗り越え、芸術家としての絶対的な権威を確立しようとしているのです。
カジミール・マレーヴィチは、1935年に死去しましたが、その死後も彼の影響は強く残り続けました。特に彼の葬儀は、シュプレマティズムの最後の公的な儀式として行われました。マレーヴィチの遺体は、彼の作品に見られるシュプレマティズム的なデザインの棺に収められ、彼の代表作である「黒の正方形」がトラックのボンネットに展示されるなど、非常に象徴的な葬儀となりました。この儀式は、彼の芸術的遺産を未来に伝えるための最後の公的な行為であり、同時にシュプレマティズム運動の終息を示すものでした。
マレーヴィチの墓石は、彼の「黒の正方形」をモチーフにした立方体の形状で設計され、彼の芸術的アイデンティティを象徴するものとなりました。このように、彼の死後も彼自身の芸術的な神話が続き、後の世代に影響を与え続けたのです。
「自画像(アーティスト)」は、カジミール・マレーヴィチの芸術的な遺産と哲学的な理念を表現する重要な作品です。この作品は、彼の後期の絵画における写実的な回帰を示しつつも、彼が自身の芸術的立場をどのように確立しようとしていたかを物語っています。シュプレマティズムの枠を超え、自己神格化と創造的自由の象徴としての役割を果たしているこの作品は、マレーヴィチの芸術的精神がいかにして時代を超えて影響を及ぼし続けるのかを示すものです。また、彼の葬儀に見られる儀式的な要素や墓石のデザインも、彼の芸術が如何にして後の世代に神話的に受け継がれていったかを物語っています。
マレーヴィチが残した「自画像(アーティスト)」は、ただの肖像画にとどまらず、芸術家としての自己表現と哲学的な理念の融合を示す象徴的な作品であり、その深遠な意味は今なお美術史の中で重要な位置を占めています。
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