【陶彫唐獅子】沼田一雅-皇居三の丸尚蔵館収蔵

陶彫唐獅子
近代陶芸が獲得した彫刻的精神
昭和初期、日本の陶芸は静かだが確かな変革の只中にあった。実用と装飾、工芸と美術という長く固定化されてきた区分が揺らぎ、素材そのものの可能性を問い直す動きが各地で芽生えていた。その潮流の中に位置づけられるのが、沼田一雅による《陶彫唐獅子》である。本作は単なる優品にとどまらず、陶という媒体が彫刻的表現を本格的に担い得ることを、静かな説得力をもって示した記念碑的作品といえる。
一見すると、この唐獅子は青銅彫刻のような厳粛さをたたえている。重量感のある量塊、落ち着いた暗緑色の表情、そして時を経た金属のような深み。しかし近づいてみると、そこには陶磁器特有の柔らかな光沢と、釉薬が生み出す微細な揺らぎが息づいている。金属を模すのではなく、あくまで陶であることを引き受けたうえで、別の素材領域に踏み込む。その緊張関係こそが、本作の最大の魅力である。
《陶彫唐獅子》は、旧秩父宮家の依頼により、邸宅の玄関脇を飾る置物として制作された。つまり本作は、鑑賞専用の美術品である以前に、空間を守護する役割を担う存在として構想されている。唐獅子という主題の選択は偶然ではない。唐獅子は古来、神社仏閣の境界に立ち、内と外、聖と俗を分かつ象徴的存在であった。その造形は、威厳と霊性、力と沈黙という相反する要素を同時に宿すことを要請される。
沼田一雅は、この複雑な役割を、阿形・吽形という対の構成によって明確化した。口を開き、躍動する気配を放つ阿形と、口を閉じ、内へと力を収斂させた吽形。両者は対峙しながらも互いを補完し、不可分の均衡を保っている。ここには単なる様式的踏襲ではなく、形態そのものによって「守る」という概念を表現しようとする彫刻家としての思考がうかがえる。
造形の細部に目を向ければ、その彫刻的完成度は驚くべき水準にある。筋肉の張りと緩み、体重移動に伴う微妙な歪み、たてがみの流れが生むリズム。これらは写実を目的としたものではなく、生命感を造形として凝縮するための選択である。陶という可塑的な素材は、沼田の手において、単なる成形の媒体ではなく、彫り出すための抵抗体として機能している。
釉薬の扱いもまた、本作を特異な存在へと押し上げている。濃緑色の釉は均質でありながら、光の加減によって微妙に表情を変える。その変化は、青銅の酸化皮膜を想起させつつも、決して冷たくはならない。陶の内部からにじみ出るような温度が、作品全体に静かな呼吸を与えている。この色調の選択は、屋内外の境界に置かれる彫像として、時間の経過と共存することを強く意識した結果であろう。
沼田一雅は、明治末から昭和にかけて、陶芸と彫刻の双方に足場を持ち続けた稀有な作家であった。彼は伝統技法を深く理解しながらも、それを再現することに満足せず、常に造形芸術としての陶を問い続けた。動物を主題とした作品群に共通するのは、外形の巧みさ以上に、内在する力の可視化への執念である。《陶彫唐獅子》は、その探究が最も高い次元で結実した例といえる。
本作が昭和初期の陶芸界に与えた影響は決して小さくない。器を中心として発展してきた陶芸において、立体彫刻としての可能性が明確に示されたことで、多くの作家が造形的表現へと関心を向ける契機となった。陶は壊れやすく、重力に制約される素材であるが、その制約こそが独自の造形言語を生み出すことを、《陶彫唐獅子》は雄弁に物語っている。
守護獣としての宗教的象徴性、近代的な彫刻意識、そして陶芸技術の極限的な応用。これらが均衡を保ちながら一体となっている点に、本作の静謐な強度がある。《陶彫唐獅子》は声高に革新を主張することなく、ただそこに在ることで、陶芸の地平を確実に押し広げた。近代日本美術におけるその意義は、今なお色褪せることがない。
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