【しま模様の人物】ルフィーノ・タマヨーー東京国立近代美術館所蔵

しま模様の人物
大地の記憶と普遍性のあいだ

 1975年に制作された《しま模様の人物》は、ルフィーノ・タマヨーの晩年に近い時期の作品であり、彼の芸術観が成熟したかたちで結晶した一作である。東京国立近代美術館に所蔵されるこの絵画は、タマヨーが生涯にわたって追求した「土地に根ざしながらも土地に縛られない表現」という逆説的な理念を、簡潔かつ雄弁に語っている。

 タマヨーは、メキシコ革命後の美術界において主流を占めた社会主義的壁画運動とは距離を取り、あくまで絵画の自律性を重んじた画家であった。彼はサポテカ族の血を引き、先住民文化に深い敬意を抱いていたが、その表現は決して民族的アイデンティティの直接的な表明には向かわなかった。むしろ彼が目指したのは、文化的記憶を抽象化し、個人の感覚を通して再構築することで、普遍的な造形言語へと昇華させることであった。

 1930年代のニューヨーク滞在、そして戦後のパリでの活動は、タマヨーに国際的な視野を与えた。ヨーロッパ近代絵画や同時代の抽象表現に触れる中で、彼は「メキシコ的であること」と「世界的であること」が必ずしも対立しないという確信を深めていく。こうした経験は、彼の絵画から物語性や政治的メッセージを後退させ、色彩と形態そのものが語る表現へと導いた。

 《しま模様の人物》に描かれるのは、特定の個人を示す肖像ではない。そこにあるのは、人間という存在を記号化し、簡略化し、なおかつ親密さを失わない不思議な造形である。人物は幾何学的な輪郭によって構成され、身体の各部は誇張と省略を交えながら再配置されている。その姿はどこか滑稽でありながら、同時に原初的な厳かさを帯びている。

 画面を特徴づける縞模様は、この作品の核心的要素である。縞は身体を覆いながら、同時に身体そのものを分節化し、リズムを与える。視線は縞の反復によって画面を行き交い、人物は静止していながら、内側に微かな運動を孕んでいるように見える。この縞模様は、織物や工芸に見られる反復文様を想起させると同時に、純粋な造形要素として機能している。

 タマヨーにとって色彩は、主題以上に重要な意味を持っていた。《しま模様の人物》に用いられる色は、赤、橙、褐色、そして抑制された暗色を基調とし、メキシコの大地や果実を思わせる温度を帯びている。これらの色は、感情を直接的に刺激するというよりも、身体感覚に訴えかけるように作用する。見る者は、説明されることなく、色の重なりや響き合いの中に身を委ねることになる。

 タマヨー自身が語っているように、彼の色彩感覚は幼少期の記憶と深く結びついている。市場に並ぶ果物の鮮烈な色、乾いた土の赤、夕暮れの空の紫。その記憶は具体的な風景としてではなく、色そのものの感触として彼の内に蓄積され、絵画の中で再び呼び覚まされる。《しま模様の人物》における色彩もまた、そうした感覚の堆積から生まれたものである。

 人物表現に見られる簡潔さと象徴性は、メキシコ古代美術との静かな共鳴を感じさせる。マヤやアステカの彫刻に見られる、写実を超えた造形の力学は、タマヨーの人物像において現代的なかたちで再解釈されている。ただし、そこには模倣や引用はない。古代的な造形精神が、現代絵画の文脈の中で自然に呼吸しているのである。

 《しま模様の人物》は、民族性の主張でも、抽象への逃避でもない。それは、人間という存在を、文化と個人、記憶と現在の交差点に置き、静かに見つめ直す試みである。ユーモラスでありながら軽薄ではなく、単純でありながら浅薄ではない。この微妙な均衡こそが、タマヨー芸術の核心である。

 タマヨーは、生涯を通じて「絵画は説明するものではなく、感じさせるものである」という姿勢を貫いた。《しま模様の人物》は、その姿勢が最も穏やかで、同時に確信に満ちたかたちで示された作品と言えるだろう。そこに描かれた人物は、特定の時代や場所を超え、見る者それぞれの記憶と静かに結びついていく。沈黙の中で、色と形が語り続ける――それが、ルフィーノ・タマヨーの到達した絵画の姿である。

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