【風景】飯田操朗‐東京国立近代美術館所蔵

沈黙する大地
飯田操朗と昭和初期の風景意識
飯田操朗が一九三五年に描いた油彩画《風景》は、日本近代洋画の中でも、声高に主張することなく、しかし確かな重みをもって時代を映し出す作品である。画面に展開するのは、農村の家屋と畑、遠くに連なる山並みという、ごく平凡な風景である。だが、その静かな佇まいの奥には、昭和初期という不安定な時代を生きた画家の思考と、日本近代洋画が到達した一つの成熟の姿が、沈殿するように刻み込まれている。
飯田操朗は、日本の洋画史において決して前景に立つ存在ではない。しかしその作品群は、近代日本における写実表現の静かな深化を語る上で欠かすことができない。京都市立絵画専門学校で基礎を学び、ヨーロッパ留学を通して西洋絵画の技法と思想を吸収した飯田は、帰国後、日本の風土と生活に根ざした主題を一貫して描き続けた。彼の関心は、壮大な歴史や異国的幻想ではなく、日々の営みの中に潜む確かな実在感に向けられていた。
《風景》は、そうした飯田の姿勢が最も端正なかたちで結実した作品の一つである。画面には、広がる農地と素朴な建物が、落ち着いた色調で配置されている。緑や茶を基調とした色彩は抑制され、強いコントラストや劇的な効果は意図的に避けられている。その代わりに、自然光がもたらす微細な明暗の移ろいが、画面全体に静かなリズムを与えている。
一見すると、この作品は極めて写実的である。遠近法は正確に用いられ、空間は自然に奥へと開かれていく。しかし同時に、その風景は単なる現地の再現にとどまらない。飯田の描く農村は、現実の具体性を保ちながらも、どこか抽象化された静けさを帯びている。それは、画家が見た一瞬の景色というよりも、時間を超えて持続する「風景の記憶」のように感じられる。
ここに、飯田操朗の画風の核心がある。彼は、西洋絵画から学んだ遠近法や油彩技法を用いながら、日本美術が伝統的に重んじてきた平面性や余白の感覚を失っていない。画面は奥行きを持ちながらも、決して観る者を深く引きずり込むことはなく、一定の距離を保ったまま静かに存在する。その距離感が、作品に独特の沈静をもたらしている。
制作された一九三〇年代半ばという時代背景を考えると、《風景》の静けさは一層意味深く映る。昭和恐慌の余波、社会不安の拡大、そして軍国主義の影が次第に濃くなりつつあったこの時代において、飯田はあえて農村の穏やかな姿を描いた。それは現実からの逃避ではなく、急激に変容する社会に対する一つの応答であったと考えられる。
描かれた農村風景は、当時すでに「失われつつあるもの」として意識され始めていた。都市化と工業化の進展により、農村は近代化の外縁へと押しやられつつあった。飯田の《風景》は、そうした変化の只中にあって、変わらぬものへの希求を静かにすくい上げている。そこには郷愁や理想化が含まれているが、それは感傷的な回顧ではなく、生活の基盤としての自然への深い信頼に支えられている。
光と影の扱いも、この作品の重要な要素である。日差しは柔らかく、建物や木々に均等に降り注ぐ。印象派的な明るさを想起させながらも、色彩は抑えられ、過度な分解は行われない。そのため、画面全体は分散することなく、静かな統一感を保っている。飯田にとって光とは、瞬間的な効果ではなく、風景を包み込む持続的な環境そのものだったのであろう。
構図においても、飯田の慎重さは際立っている。画面中央に配置された建物群は、視線の拠点となり、その周囲を囲む農地や樹木が穏やかな流れを生み出す。さらに遠景の山と空が加わることで、画面は閉じることなく、しかし無限に拡散することもない。均衡と抑制が、ここでは美徳として機能している。
《風景》は、声高な主張や象徴的なモチーフを持たない。だが、その沈黙の中には、自然と人間の関係、時間の流れ、そして場所が持つ記憶といった、根源的な問いが静かに息づいている。観る者は、この絵を前にして思考を強いられるのではなく、ただ佇み、呼吸を合わせることになる。その体験こそが、飯田操朗の絵画が持つ最大の力である。
東京国立近代美術館に所蔵されていることは、この作品が日本近代洋画史の中で確かな位置を占めていることを示している。《風景》は、革新や断絶の物語とは異なるかたちで、日本の近代絵画が到達した一つの静かな完成形を体現しているのである。飯田操朗の絵画は、時代の喧騒から一歩距離を取りながら、今なお観る者に深い余韻を残し続けている。
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