【《昔語り》下絵(舞妓)】黒田清輝‐東京国立博物館収蔵

【《昔語り》下絵(舞妓)】黒田清輝‐東京国立博物館収蔵

黒田清輝は、日本近代洋画の基礎を築いた画家として知られています。その作風は、西洋で学んだ技術をもとにしながらも、日本の伝統文化や美意識を融合させた独自のものでした。そのような背景の中で生まれた作品のひとつが、1896年に制作された《昔語り》の下絵です。この下絵は、現在東京国立博物館に収蔵されており、完成作(残念ながら戦災で焼失)へと至る過程の中で、黒田がどのように作品を構築していったかを知る上で貴重な資料となっています。

黒田が《昔語り》を制作するに至った着想は、明治26年に京都を旅行した際に得られたものです。彼が東山の清閑寺を訪れたとき、寺の僧侶から『平家物語』の小督(こごう)悲恋の物語を聞いたことがきっかけでした。この物語は、『平家物語』の中でもとりわけ悲哀に満ちたエピソードで、平家と源氏の争いの中で運命に翻弄される女性の物語です。黒田は、この物語に深く心を動かされ、その情景を絵画として表現することを決意しました。

この時代、日本は明治維新を経て急速な近代化を進めており、伝統と革新が混在する中で、多くの文化的な葛藤が生じていました。黒田はフランスで学んだ近代的な絵画技法を日本に持ち帰ると同時に、こうした葛藤を反映するかのように、日本の伝統美と西洋美術の融合を模索しました。彼にとって《昔語り》は、その探求の重要な一歩だったと言えるでしょう。

黒田の《昔語り》下絵では、舞妓が画面の中心に配置され、その佇まいは静謐かつ詩的です。この舞妓の描写において、黒田は日本の風俗を忠実に再現する一方で、彼女をただの風俗的な存在として描くのではなく、物語性や感情を宿らせることに成功しています。舞妓の衣装には伝統的な模様や色彩が繊細に描き込まれ、彼女が纏う着物の優雅さや質感が油彩技法によって見事に表現されています。この細部へのこだわりは、黒田がデッサンや習作を何度も重ね、対象を深く理解しようとした証拠でもあります。

舞妓というモチーフが持つ儚さや哀愁は、聞いた物語である小督の悲恋と重なります。小督は平清盛の命令で都を離れることを余儀なくされる女性で、その運命に翻弄される姿が物語の中核となっています。この物語が舞妓という存在を通して再解釈され、絵画に昇華されることで、鑑賞者はただ視覚的な美しさを享受するだけでなく、物語の背景にある普遍的な感情やテーマに触れることができるのです。

黒田はまた、背景や構図においても工夫を凝らし、鑑賞者が舞妓の内面的な世界を感じ取れるように配慮しました。背景に描かれる可能性が高い清閑寺や京都の風景は、舞妓が立つ舞台としての意味を持ち、彼女の存在により深みを与えます。黒田の作品におけるこうした空間の構成は、フランス留学時代に学んだ西洋的な遠近法や光の扱いと、日本の絵画が伝統的に重んじる平面的な装飾性の融合を示しています。

《昔語り》の制作過程では、多くのスケッチや油彩習作が行われました。これらの準備段階を経て、黒田は物語性と視覚的な美しさのバランスを探りながら、最終的な完成作へと至ったのです。しかし、その完成作は戦災で焼失してしまい、現存しません。そのため、この下絵は、《昔語り》という作品がどのような姿であったかを想像するための唯一の手がかりであり、非常に重要な資料となっています。

現在、この下絵は東京国立博物館に収蔵されており、黒田の制作意図や技術を知る上で貴重な役割を果たしています。また、この作品は日本近代美術の歴史を語る上でも欠かせないものであり、黒田が果たした役割を再評価する上で重要な位置づけを持っています。

《昔語り》下絵(舞妓)は、日本と西洋の美術が交差する地点に立つ作品です。そこには、伝統を重んじながらも新しい表現を追求しようとする黒田の強い意志が感じられます。この作品が語りかけるのは、単なる過去の物語ではなく、文化や時代の変化の中で揺れ動く人間の感情そのものです。それは現代に生きる私たちにも共感を与える普遍的なテーマであり、黒田の《昔語り》が今なお多くの人々を惹きつけてやまない理由でもあります。

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