【森へ行く日】舟越桂‐東京国立近代美術館所蔵

森へ行く日
舟越桂と1980年代日本彫刻における具象の再発明

1984年に制作された舟越桂の《森へ行く日》は、1980年代日本の彫刻史において、静かでありながら確かな転換点を刻んだ作品である。それは声高に革新を主張するものではなく、むしろ沈黙のうちに、彫刻というメディウムが内包してきた前提を揺るがす。木彫という古典的な技法を基盤にしながらも、異質な素材の導入と人体表現の再構築によって、具象彫刻の可能性を新たな地平へと導いた点に、この作品の本質的な重要性がある。

1970年代後半から80年代初頭にかけての日本美術は、戦後長く支配的であった抽象表現の潮流が緩やかに後退し、再び「人」や「身体」をめぐる問いが前景化する時代であった。だが、それは単純な写実回帰ではない。むしろ、具象とは何か、彫刻において人間の存在をどのように成立させうるのかという、根源的な再検討の時代であった。舟越桂は、この問いに対し、きわめて誠実で、かつ個人的な方法によって応答した作家である。

舟越の彫刻は、一見すると穏やかで、抑制された佇まいをもつ。しかしその内部には、素材、形態、身体感覚をめぐる鋭い思考が張り巡らされている。《森へ行く日》は半身像という形式をとり、全身像が持つ物語性や、首像が強調する人格性をあえて退けている。そこに現れるのは、誰か特定の人物ではなく、「人であること」の物質的な在り方そのものだ。

素材の選択は、この作品を理解するうえで欠かせない。主材として用いられた楠の木は、舟越の制作において特別な位置を占める。柔らかく、彫り進める手の動きに素直に応じながら、完成後には確かな量感と温度を保つこの木は、人体の表現と深く結びついている。舟越は楠の木目や色味を隠すことなく、むしろそれを身体の一部として受け入れることで、彫刻を「像」ではなく「存在」として立ち上げる。

その温もりに対し、目に嵌め込まれた大理石は、明確な異質性を放つ。冷たく、硬く、光を反射するこの素材は、木彫の有機性と鋭く対立する。だが、その対立は不協和ではなく、緊張として保たれている。大理石の眼差しは、感情を語らず、内面を露わにもしない。それは見る者を見返しながら、同時に距離を保つ視線であり、彫刻が単なる感情移入の対象に回収されることを拒む。

さらに肩部に配されたゴムチューブは、彫刻に決定的な現代性をもたらす要素である。木や石といった伝統的素材とは異なり、工業製品であるゴムは、柔軟で、人工的で、身体に密着する性質をもつ。舟越はこの素材によって、デッサンにおいて繰り返し現れていた「黒く、艶やかで、粘性を帯びた帯状の存在」を三次元化した。それは衣服でも装飾でもなく、身体に絡みつく何か、あるいは身体の外部に現れた内的感覚のようでもある。

この異素材の共存は、単なる視覚的効果を超え、彫刻の感覚的領域を拡張する。見ることと触れること、硬さと柔らかさ、自然と人工といった対立項が、ひとつの身体のうちに同時に存在することで、観る者は像を一望するのではなく、部分ごとに知覚し、考えざるを得なくなる。彫刻はここで、即時的な理解を拒み、時間を要する思索の場となる。

半身像という形式もまた、この思索を支える重要な選択である。舟越自身が述べているように、全身像は社会的な匿名性を、首像は個人の人格性を強く帯びる。それに対し半身像は、より物体的で、彫刻としての存在感が前面に出る形式である。《森へ行く日》において人物は、どこかへ向かう途中のようでもあり、同時に永遠に立ち止まっているかのようでもある。「森へ行く」という行為は具体的な物語を語らず、むしろ内面的な移行や予感として、静かに示唆される。

この作品に通底するのは、表現主義的とも言える感覚の重視である。ただしそれは、激しい感情の噴出ではなく、抑制された形態のなかに沈殿した感覚である。舟越の彫刻は、語りすぎないことで、かえって多くを語る。素材の質感、身体の断片、沈黙する眼差しは、観る者それぞれの経験や記憶を呼び起こし、作品の意味を固定しない。

《森へ行く日》は、具象彫刻が過去の様式ではなく、なお更新されうる表現であることを示した。そこでは人体は再現される対象ではなく、素材と思考が交差する場として立ち現れる。舟越桂は、この作品を通じて、彫刻が持ちうる静かな強度と、物質を通して思考するという行為の深さを、現代に提示したのである。その佇まいは今もなお、見る者に問いを投げかけ続けている。

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