【無題多角形のある頭部】ジャクソン・ポロック‐東京国立近代美術館所

無題(多角形のある頭部)
具象と抽象の臨界点に立つジャクソン・ポロック

ジャクソン・ポロックの名は、今日、床に広げた巨大なキャンバスと、そこに滴下される絵具の軌跡と強く結びついている。身体全体を用いた制作行為、制御と偶然がせめぎ合う画面構成、そして「抽象表現主義」という語が象徴する戦後アメリカ美術の転換点——そうしたイメージは、あまりにも強固であるがゆえに、彼がその地点に至るまでの長く複雑な試行錯誤を覆い隠してしまいがちである。東京国立近代美術館に所蔵される《無題(多角形のある頭部)》は、その覆いの下に潜む、ポロックの初期の葛藤と探索を静かに物語る作品である。

本作は1938年から1941年頃にかけて制作されたと考えられており、ポロックがいまだ自己の決定的な様式を獲得する以前の段階に位置づけられる。油彩による比較的小品でありながら、そこには後年の爆発的なエネルギーとは異なる、内向的で緊張に満ちた空気が漂っている。画面中央には人物像らしき形態が据えられているが、それはもはや自然主義的な再現から大きく逸脱している。身体は歪み、空間は圧縮され、形態は四角い枠の中に押し込められるように配置されている。

この人物像は、女性である可能性をうかがわせつつも、明確な性別や個性を拒む存在として描かれている。顔や身体の輪郭は不安定で、具象と抽象のあわいに留まっている。特に注目されるのは、上げられた腕に付随する奇妙な形態である。それは別の顔、あるいは横顔の断片のようにも見え、主体の身体に「寄生」しているかのような不穏さを帯びている。このモチーフは、単なる造形的実験にとどまらず、分裂した自己や重層的な意識を暗示するものとして読むことができる。

画面上部、あるいは人物像に重ねられるように配置された赤と黒の幾何学的な多角形は、この作品に決定的な緊張をもたらしている。鋭利な輪郭と強い色彩対比をもつこの形態は、下層にある有機的な人物像と激しく衝突し、両者の間に視覚的・心理的な断絶を生み出す。それは覆いであり、障壁であり、同時に焦点でもある。観る者の視線は否応なくこの多角形に引き寄せられ、その背後にある像との関係を問い直すことを強いられる。

このような構成は、ポロックが当時強い影響を受けていた美術潮流を如実に反映している。ピカソのキュビスムに見られる形態の分解と再構成、シュルレアリスムにおける夢や無意識のイメージ、さらにはカンディンスキーに代表される精神性と抽象の結びつき——それらが、本作の中で未分化な状態のまま混在している。しかし重要なのは、ポロックがこれらの影響を単なる模倣として受け取っているのではなく、自身の内面と格闘させる素材として用いている点である。

1930年代後半のポロックは、技法的にも精神的にも不安定な時期にあった。職業的な成功はまだ遠く、内面的には強い葛藤と不安を抱えていたことが知られている。この時期に彼が精神分析、とりわけユング心理学に関心を寄せていたことは、本作を読み解くうえで重要な手がかりとなる。集合的無意識や象徴的イメージといった概念は、彼にとって、自己の内奥に潜む衝動を視覚化するための理論的支柱であった。

《無題(多角形のある頭部)》において、人物像は統一された主体としてではなく、断片化され、覆われ、干渉される存在として現れる。これは、自己が確固たる中心を持たず、複数の力に引き裂かれている状態の視覚的表象とも解釈できる。幾何学的な多角形は、理性や構造、あるいは外部からの圧力を象徴し、有機的な身体像と対峙する。その対立は解消されることなく、画面内に緊張として留め置かれている。

注目すべきは、ポロックがこの段階において、すでに「描くこと」を単なる再現ではなく、心理的な行為として捉えている点である。後年のドリッピングがしばしば身体運動と無意識の直接的な表出として語られるのに対し、本作では、より抑制された形で、しかし確かに内面への志向が示されている。油彩という伝統的な媒材を用いながらも、構図や形態の選択によって、彼は既存の絵画的秩序を内側から揺さぶっている。

この作品が示すのは、完成された様式ではなく、過程そのものである。具象から抽象へ、外的世界の描写から内的世界の探究へ——その移行は直線的ではなく、迷いと回帰を伴う。《無題(多角形のある頭部)》は、その揺らぎの只中にある一瞬を封じ込めた記録であり、ポロックの芸術がいかにして生まれつつあったかを雄弁に語る。

後年、ポロックは形象を完全に解体し、線と色彩のリズムへと向かっていく。しかし、その急進的な飛躍は、突如として起こったのではない。本作に見られる不穏な静けさ、形態同士の衝突、心理的な深度への欲求こそが、やがて全面的な抽象へと至るための土壌であった。《無題(多角形のある頭部)》は、その意味で、ポロックの芸術的アイデンティティが胎動する場を示す、きわめて重要な作品なのである。

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