【黒と茶】芥川(間所)紗織‐東京国立近代美術館所蔵

黒と茶
芥川紗織 色彩が沈黙へ向かうとき

芥川紗織の一九六〇年代の作品群は、それまで彼女の表現を支えてきた神話性や象徴性を内包しつつ、より凝縮された色彩と思考の領域へと向かっている。《黒と茶》(一九六二年制作)は、その転回を静かに、しかし決定的に示す作品である。東京国立近代美術館に所蔵されるこの油彩画は、派手な構成や劇的なモチーフを欠きながらも、深い精神的緊張を画面全体に湛えている。

本作において、芥川は二つの色——黒と茶——のみを主軸に据えている。この制限された色彩の選択は、表現の貧困ではなく、むしろ表現の成熟を物語るものである。色を削ぎ落とすことで、彼女は形態や物語から距離を取り、色そのものが持つ存在感と精神性を前景化させた。

黒は、芥川の作品世界においてしばしば深層意識や沈黙、不可視の領域を象徴する色として現れる。それは否定や虚無を意味するのではなく、むしろあらゆるものを内包する深度として機能する。一方、茶色は土や身体、時間の堆積を想起させる色であり、生活や記憶、あるいは生の重みと結びついている。《黒と茶》におけるこの二色の関係は、対立というよりも、緩やかな緊張を孕んだ共存として画面に定着している。

芥川がこの作品を制作した一九六二年という時代背景も重要である。高度経済成長の只中にあった日本社会は、急速な変化と拡張を続ける一方で、精神的な空白や喪失感を内包し始めていた。芥川の画面は、そうした時代の騒音から距離を取り、むしろ沈黙の側へと身を寄せているように見える。

画面構成は抽象的でありながら、決して無秩序ではない。黒と茶は、明確な境界を持たず、互いに侵食し、滲み合いながら画面を形成している。その境界の曖昧さは、二つの色が象徴する異なる精神状態や時間層が、完全には分離され得ないことを示唆しているかのようである。

筆致は抑制されており、過度な動勢や衝動性は見られない。そこには、抽象表現主義的な身振りの痕跡が残りつつも、それを内側から鎮めようとする意志が感じられる。芥川は、感情を爆発させるのではなく、色彩の内部に沈殿させることで、より深い精神的響きを獲得している。

抽象表現主義との関係において、《黒と茶》は興味深い位置を占める。確かに、色面の扱いや画面全体に広がる感情的空間には、ロスコ的な影響を想起させる部分もある。しかし芥川の作品には、西洋の抽象表現主義に見られる超越性や劇的崇高さとは異なる、日本的な内省性が色濃く漂っている。

その内省性は、日本画に通じる余白の感覚や、色と色のあいだに生じる微妙な間に現れている。黒と茶のあいだには、単なる色彩の差異以上の「間」が存在し、そこに観る者の思考が入り込む余地が生まれる。この余白こそが、《黒と茶》を瞑想的な作品たらしめている要因である。

また、この作品には芥川自身の人生経験が静かに反映されているとも考えられる。戦前、戦中、戦後という激動の時代を生き抜いた彼女にとって、色はもはや外界を描写する手段ではなく、内的時間を可視化する媒体となっている。《黒と茶》は、語られなかった記憶や、言葉にならなかった感情が、色として沈殿した画面である。

この作品が放つ力は、即物的なインパクトではなく、持続的な余韻にある。観る者は、画面の前で立ち止まり、黒と茶が織りなす静かな緊張に身を委ねることで、自らの内面と向き合うことを促される。そこには答えも結論も提示されない。ただ、思索の場が開かれているのみである。

《黒と茶》は、芥川紗織が到達した一つの静かな極点である。色を語らせ、形を沈黙させることで、彼女は絵画を精神の場へと変容させた。この作品は、戦後日本美術の中において、声高な革新とは異なる、深く静かな問いの形を今なお提示し続けている。

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