【ゴンベとカラス】桂ゆき(ユキ子)‐東京国立近代美術館所蔵

ゴンベとカラス
民話の反復と試練の造形

 桂ゆきの《ゴンベとカラス》(1966年)は、戦後日本美術のなかで民俗的記憶と前衛的造形とを独自の緊張関係のもとに結びつけた、きわめて示唆的な作品である。東京国立近代美術館に所蔵されるこの油彩画は、日本人に広く親しまれてきた民話・民謡「種まき権兵衛」を題材としながら、物語の再現や挿絵的説明を徹底して拒み、象徴と構造の次元へと昇華された視覚的思考を提示している。

 桂ゆきは、民話や童謡、原初的な言語感覚を、近代絵画の構造へと翻訳することに長けた画家であった。彼女にとって民話とは、懐古的な文化遺産ではなく、繰り返し語られることで形を変えながら生き続ける「構造」としての物語である。《ゴンベとカラス》において扱われる「種まき権兵衛」もまた、単なる物語的素材ではなく、人間と自然、努力と無為、希望と挫折といった普遍的な関係性を内包する原型的モチーフとして読み替えられている。

 「種まき権兵衛」は、農民の労働と自然の摂理をめぐる物語である。播いた種がカラスに食べられてしまうという出来事は、努力が即座に報われない現実を象徴している。民謡においては、この場面が「ズンペラヨー」という軽快な囃子言葉とともに反復され、悲劇はどこか滑稽さを帯びる。成功譚が省略され、失敗の瞬間のみが強調されるこの構造は、民衆の生活感覚に深く根ざした諧謔と諦念を含んでいる。

 桂ゆきは、この物語の核心を「結果」ではなく「構図」として捉えた。彼女の絵画において重要なのは、権兵衛が成功したか否かではなく、圧倒的な自然や運命的な障害に対峙する人間の小ささと、それでもなお存在し続ける意志のあり方である。《ゴンベとカラス》は、その関係性を極度に単純化された造形によって可視化している。

 画面にまず目を引くのは、巨大な黒い三角形である。それは、写実的な鳥の姿を一切排した、純粋な形態としての「カラス」である。鋭角的で重量感のあるこの黒は、自然の摂理、抗いがたい障害、あるいは人間の外部から突如として立ち現れる不条理そのものを象徴している。黒は背景から切り離されることなく、画面全体を支配する存在として、沈黙の圧力を放っている。

 一方、その近傍に描かれる権兵衛の姿は、驚くほど小さい。簡略化された人型は、個人としての特徴をほとんど持たず、匿名的である。しかしその小ささこそが、この人物に普遍性を与えている。ここに描かれているのは、特定の農民ではなく、困難の前に立つすべての人間の原像である。

 カラスとゴンベのあいだには、圧倒的なスケール差が存在する。この不均衡は、民話における「理不尽さ」を造形的に翻訳したものであり、同時に、戦後日本社会において多くの人々が感じていた不安や無力感とも共鳴している。高度経済成長の只中にあっても、個人は巨大な構造の前で常に脆弱であった。その感覚が、寓話的なかたちで画面に沈殿している。

 しかし、この作品は決して絶望のみを語らない。黒いカラスに対峙する権兵衛の姿は、逃げることなく、画面の中に確かに存在している。背景に広がる明るい色面は、空とも大地ともつかぬ抽象的な空間であり、未来や可能性の余白を示唆する。この空間は、物語の続きを観る者に委ねる装置として機能している。

 桂ゆきの色彩は、常に感情を直接的に煽ることを避け、象徴としての距離を保っている。《ゴンベとカラス》においても、色は説明的ではなく、関係性を際立たせるために用いられている。黒の強度、人物の小ささ、背景の静かな広がり——それらはすべて、物語の「意味」ではなく「構造」を感じさせるための要素である。

 この点において、桂ゆきの民話解釈はきわめて現代的である。彼女は民話を教訓として提示するのではなく、反復される試練の構造として提示する。民謡における「ズンペラヨー」という無意味とも思える囃子言葉が、実は物語の重さを中和し、持続可能なかたちで人々の記憶に残る装置であったように、この絵画もまた、重いテーマを軽やかな造形へと変換している。

 《ゴンベとカラス》は、物語の一場面を描いた絵ではない。それは、人間が繰り返し直面する「試練」という状況そのものを、簡潔な形と色によって定着させた視覚的寓話である。そこには、努力が必ず報われるという楽天的な結論も、すべてが無意味であるという虚無も描かれていない。ただ、困難と対峙する人間の姿が、静かに、しかし確固として置かれている。

 桂ゆきは、民話という共同体の記憶を、個人の内面と結びつく普遍的な構造へと変換することに成功した。《ゴンベとカラス》は、その到達点のひとつであり、日本近代絵画における「語らない物語」の優れた例として、今なお静かな強度を保ち続けている。

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