【《無動寺縁起》のための下絵】吉川霊華ー東京国立近代美術館所蔵

無動寺縁起のための下絵
線が語る信仰と生成

 吉川霊華(一八七九―一九二八)は、日本画の近代化が模索される時代にあって、「線」という最も根源的な要素を徹底的に思索した画家であった。彼の画業は、伝統の継承と革新という二項対立を超え、線そのものを精神的表現の媒体として再定義する試みで貫かれている。《無動寺縁起》のための下絵(一九二二年制作、紙本墨画淡彩)は、そうした霊華の美学が最も純化されたかたちで表れた作品であり、完成作以上に彼の思考の痕跡を生々しく伝えている。

 本作は、無動寺に伝わる縁起を描く絵巻制作のために構想された下絵である。縁起とは、寺院や霊場の成立を語る物語であり、そこには歴史、信仰、奇瑞が重層的に織り込まれる。霊華はこの主題に対し、荘厳な宗教画としての完成度よりも、物語が立ち上がる瞬間の気配、すなわち生成の相を捉えることに力を注いだ。その結果として生み出されたのが、線の連なりによって世界を紡ぐような、この下絵なのである。

 吉川霊華の画風を特徴づけるのは、何よりも線描への徹底した集中である。色彩や量感を抑え、線そのものに造形と感情を担わせる姿勢は、近代日本画において特異な位置を占める。霊華は、線を単なる輪郭や形態規定の手段としてではなく、時間と呼吸を孕んだ存在として扱った。

 彼が自ら命名した「春蚕吐絲描」は、その思想を最も端的に示す概念である。春蚕が静かに糸を吐き出すように、途切れることなく、しかし過度な力を込めることなく引かれる細線。その線は、軽やかでありながら緊張を失わず、画面に独特のリズムを生み出す。霊華にとって線とは、描く行為の痕跡であると同時に、精神の流動そのものでもあった。

 《無動寺縁起》のための下絵では、この「春蚕吐絲描」が全面的に展開されている。人物、建築、自然の要素は、いずれも細く均質な線によって描かれ、画面全体が一種の呼吸を共有しているかのような印象を与える。線は速やかに走りながらも粗雑に流れることはなく、一定の抑制を保ったまま連なっていく。その均衡こそが、作品に静謐さと緊張を同時にもたらしている。

 霊華の線描は、中国絵画、とりわけ東晋の画家・顧愷之に連なる伝統から多くを学んでいる。顧愷之の「高古遊絲描」は、遊ぶ糸のように細く、しなやかで、見る者に軽やかな快感を与える線描として知られる。霊華はこの技法に深い共感を寄せつつも、単なる受容にとどまることなく、日本画の文脈の中で再構築した。

 顧愷之の線が、人物の内面や品格を浮かび上がらせるためのものであったとすれば、霊華の線は、さらにその手前にある生成の気配を捉えようとする。線は完成された形を示す以前に、形が生まれつつある過程を示唆する。そのため、《無動寺縁起》のための下絵には、完成画には見られない即興性と透明感が宿っている。

 この点において、霊華の線描は、同時代の日本画家である安田靫彦のそれと対照的である。安田もまた顧愷之を範とし、細線描を重視したが、その線はより重く、画面に精神的緊張を定着させる方向へと向かった。安田の線が「留まる」線であるとすれば、霊華の線は「流れる」線であると言えるだろう。

 霊華の線には速度がある。しかしそれは、拙速や軽薄さとは無縁のものであり、むしろ呼吸の一定した運動に近い。蚕が糸を吐く行為が生命のリズムに根ざしているように、「春蚕吐絲描」もまた、身体と精神が一致した状態から生まれる線なのである。そのため、線は神聖な物語を描きながらも、過剰な装飾性に陥ることがない。

 無動寺縁起という主題は、霊的存在や奇瑞を含む物語であるが、霊華はそれらを劇的に誇張することを避けている。神々や僧侶、出来事は、すべて同じ線の質によって描かれ、世界の中に静かに配置される。この均質性が、かえって物語全体に宗教的な深みを与えている。

 本作が下絵であるという事実も重要である。完成を目的としないがゆえに、霊華の思考は線として直接画面に刻まれている。そこには、構図を探り、物語の流れを確認し、線の調子を試みる過程が、そのまま残されている。下絵であるからこそ、霊華の芸術が持つ実験性と誠実さが、最も率直なかたちで表出しているのである。

 《無動寺縁起》のための下絵は、吉川霊華が到達した線描芸術の一つの極点を示す作品である。顧愷之の「高古遊絲描」を源泉としつつ、日本画の伝統と近代的自覚を融合させた「春蚕吐絲描」は、線を通して信仰と物語、そして時間の流れを可視化することに成功した。

 この作品において、線は形を縁取るための手段ではなく、世界を生成する原理として存在している。細く、静かに、しかし確かに連なる線の集積は、見る者を物語の内奥へと導き、信仰が立ち上がる瞬間の気配を伝える。吉川霊華は、この下絵を通じて、日本画における線の可能性を、静かに、しかし決定的に押し広げたのである。


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