【大台ヶ原山中】鹿子木孟郎-皇居三の丸尚蔵館収蔵

大台ヶ原山中
鹿子木孟郎 自然と写実の臨界
昭和初期、日本の洋画壇がひとつの成熟期を迎えつつあった時代に、鹿子木孟郎は「大台ヶ原山中」を描いた。本作は、単なる名勝の記録でも、技巧を誇示する写実画でもない。そこにあるのは、自然と対峙し、自然の内部へと深く分け入ろうとする画家の静かな覚悟である。荒々しい渓流と重なり合う岩塊、湿潤な空気に沈む森の気配は、鑑賞者を一瞬にして山中へと誘い込み、同時に自然という存在の圧倒的な質量を突きつける。
大台ヶ原は、奈良県と三重県の境に連なる山岳地帯であり、日本でも屈指の多雨地として知られる。霧に包まれた稜線、原生林に覆われた斜面、そして深く刻まれた渓谷は、風景という言葉では収まりきらない複雑な表情を持つ場所である。鹿子木孟郎がこの地に惹かれた理由は、単に景観の壮麗さにあったのではない。人の手を容易に拒む自然の厳しさ、そこに脈打つ生命の連鎖、そのすべてを引き受ける場としての山の存在が、彼の制作意識と強く共鳴したのである。
鹿子木は、明治から昭和にかけて活躍した洋画家であり、その画業は一貫して写実を基盤としていた。しかし彼の写実は、写真のような再現性を目指すものではない。対象を凝視し、そこに潜む構造や時間の層を掬い取ろうとする、きわめて思索的な営みであった。自然を前にしたとき、鹿子木は表層的な美しさではなく、その奥にある「在り方」を描こうとした画家である。
「大台ヶ原山中」においてまず目を引くのは、画面中央を貫く渓流の存在である。水は透明でありながら重量を持ち、岩にぶつかり、削り、分かれ、再び流れを成す。その運動は、筆致によって過度に強調されることなく、むしろ抑制された描写の積み重ねによって表現されている。鹿子木は水を描く際、光の反射や飛沫の効果に溺れることなく、水そのものが持つ冷たさや持続性を画面に定着させた。
周囲を取り囲む岩肌や樹木もまた、同様に沈黙の中で語る存在として描かれている。岩は荒々しく、しかし誇張されることはない。苔むした表面や湿り気を帯びた陰影は、長い時間をかけて形成された自然の履歴を静かに示す。木々は画面を覆い尽くすことなく、適度な密度で配置され、渓流との呼応関係を生み出している。そこには構図の巧みさと同時に、自然を一つの秩序として捉えようとする画家の眼差しが感じられる。
本作が制作された昭和七年は、日本の洋画が西洋的な様式受容から一歩進み、日本の風土に根ざした表現を模索していた時期である。鹿子木孟郎は、その流れの中で特異な位置を占める。彼は西洋絵画の技法を熟知しながらも、それを日本の自然にそのまま当てはめることを良しとしなかった。大台ヶ原の湿潤で重層的な風景は、乾いたヨーロッパの風景画の論理では捉えきれない。鹿子木はその差異を直感的に理解し、絵画の側を自然に近づけるという選択を行ったのである。
また、「大台ヶ原山中」には、画家自身の身体感覚が色濃く反映されている。険しい山道を踏みしめ、湿った岩に手をかけ、流れる水音に耳を澄ませる。その体験が、画面の奥行きや重心の置き方に微妙な影響を与えている。鹿子木にとって写生とは、視覚だけの行為ではなく、身体全体で自然を受け止める行為であった。だからこそ、本作は鑑賞者に対しても、単なる視覚的快楽を超えた没入感をもたらす。
帝国美術院展覧会に出品された本作は、当時から高い評価を受けた。それは技巧の完成度だけでなく、風景画というジャンルにおける一つの到達点を示していたからである。自然を「美しい対象」として消費するのではなく、自然と人間との距離を測り直す場として提示した点において、「大台ヶ原山中」は昭和期風景画の重要な指標となった。
鹿子木孟郎の風景画には、常に静けさがある。それは感情の欠如ではなく、自然に対する深い敬意から生まれる沈黙である。「大台ヶ原山中」においても、自然は声高に語られることはない。しかし、画面の隅々にまで行き渡る緊張感と密度は、見る者に長い余韻を残す。そこには、自然の力強さと同時に、人間が容易に踏み込むことのできない領域への畏れが描き込まれている。
本作が今日まで語り継がれてきた理由は、その普遍性にある。特定の時代や場所を描きながらも、自然と向き合う人間の根源的な姿勢を問いかける力を失っていない。「大台ヶ原山中」は、鹿子木孟郎という画家の成熟を示すと同時に、日本洋画が自然とどのように向き合い得るかを示した、静かで強靭な記念碑なのである。
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