【5 つ家の風景】カジミール・マレーヴィチーロシア国立博物館所蔵

五つの家のある風景
沈黙する住居――マレーヴィチ、抽象と現実のあわい

1932年に制作された《五つの家のある風景》は、カジミール・マレーヴィチが歩んだ芸術的軌跡のなかでも、とりわけ静かで思索的な光を放つ作品である。ロシア国立博物館に所蔵されるこの一枚は、シュプレマティスムの急進性を経た画家が、再び世界と向き合いながら、抽象と具象の境界を慎重に探った結果として生まれたものであった。

マレーヴィチは20世紀初頭、形態と色彩を極限まで還元することで、絵画を物質的現実から解放しようとした。その試みは《黒の正方形》に象徴されるように、視覚芸術の前提そのものを覆すものであり、世界を描くのではなく、世界以前の感覚を提示することを目指していた。しかし1930年代に入ると、彼の作品には再び「風景」や「家」といった、現実を想起させるモチーフが姿を現すようになる。《五つの家のある風景》は、まさにその変化を示す代表的な作例である。

この作品に描かれた「家」は、私たちが日常的に目にする建築物とは大きく異なる。屋根や壁といった要素は残されているものの、それらは極端に単純化され、幾何学的な形態へと置き換えられている。家々は個別の存在として描き分けられているが、細部の差異はほとんどなく、まるで記号のように画面上に配置されている。この簡略化は、写実からの距離を保ちながらも、「家」という概念そのものを可視化しようとする意志の表れである。

五つの家は、画面のなかで一定のリズムをもって並び、秩序だった構成を形成している。その配置は偶然的ではなく、意図的に均衡が保たれており、静かな安定感を生み出している。同時に、色彩の選択と対比によって、画面には微妙な緊張が宿る。色は感情を直接的に煽ることなく、抑制された調和のなかで相互に作用し、観る者に穏やかな集中を促す。

背景に広がる空間もまた、自然の写生ではない。地平や空といった要素は暗示されつつも、具体的な風景描写は避けられている。ここでの空間は、現実の場所というよりも、観念的な舞台である。家々は自然のなかに「建っている」というよりも、抽象的な空間に「置かれている」と言うほうがふさわしい。この点において、マレーヴィチは依然としてシュプレマティスムの思考を手放していない。

それでも、この作品が純粋な抽象画と異なるのは、「住居」という人間的なモチーフを中心に据えている点にある。家は人間の生活の基盤であり、共同体や記憶、帰属意識を象徴する存在である。マレーヴィチはこの普遍的なモチーフを通じて、人間と環境との関係を静かに問い直しているように見える。

1930年代初頭のソビエト連邦は、急速な工業化と集団化政策によって、社会と自然の関係が大きく変容していた時代であった。農村の風景は再編され、人々の生活様式もまた、否応なく変えられていった。そうした状況のなかで描かれた《五つの家のある風景》は、失われつつある調和への郷愁として読むこともできるし、あるべき共存の形を抽象的に提示する試みとして解釈することもできる。

しかし、マレーヴィチは決して明確なメッセージを押し付けることはない。彼の家々は感情を語らず、物語を語らない。ただそこに在るだけである。その沈黙こそが、この作品の核心である。鑑賞者は、具体的な説明を与えられないまま、形と色の関係性を通じて、自らの経験や思考を投影することになる。

《五つの家のある風景》は、抽象と具象のどちらか一方に回収されることを拒む作品である。それは境界にとどまり、両者の緊張関係を保ち続ける。マレーヴィチはこの作品において、かつて追求した「純粋な形態」の理念を完全に放棄することなく、それを人間的世界と再び接続しようとしている。その試みは控えめで、内省的でありながら、きわめて深い思考を孕んでいる。

この絵画が放つ静けさは、沈黙ではなく、思索の余白である。観る者は、家々の簡潔な形の背後に、社会、自然、そして人間の存在そのものについての問いを読み取ることができるだろう。《五つの家のある風景》は、マレーヴィチが抽象芸術の先に見据えていた、もう一つの可能性――形態によって世界と和解する道――を、静かに示しているのである。

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