【光は荒野の中に輝いている】松本陽子‐東京国立近代美術館所蔵

光は荒野の中に輝いている
松本陽子における色彩と精神の風景
現代美術において「光」は、しばしば救済や希望の象徴として語られてきた。しかし松本陽子の《光は荒野の中に輝いている》における光は、単なる象徴的記号にとどまらない。それは荒野という過酷で無名の空間に、突如として現れる精神の運動であり、見る者の内面に直接触れる力を備えた存在である。本作は、自然と精神、具象と抽象、生と空白のあわいを往還する松本陽子の絵画世界を、極めて凝縮されたかたちで提示している。
松本陽子は一九五〇年生まれ。戦後日本が高度経済成長を経て価値観の転換期を迎える中で、美術家としての歩みを重ねてきた。武蔵野美術大学で基礎を学び、その後アメリカでの経験を通じて、抽象表現の持つ精神性と色彩の解放を体得する。彼女の制作は一貫して、外界の自然と内的な感覚とを分断せず、むしろ両者が交差する地点を探る試みとして展開されてきた。
《光は荒野の中に輝いている》が制作された一九九三年は、社会的にも精神的にも不透明さが増していく時代であった。経済的な繁栄の終焉とともに、人々は確かな拠り所を失い、内面へと向かう視線を強めていく。松本の絵画は、そうした時代の空気を直接的に描写することなく、より根源的な問いとして画面に沈殿させている。
作品タイトルに含まれる「荒野」という言葉は、具体的な地理的空間を示すものではない。それは生命の痕跡が乏しく、方向感覚を失わせる精神の比喩であり、同時に現代を生きる人間の内的風景でもある。その荒野のただ中に現れる「光」は、外部から与えられる救済ではなく、内側から立ち上がる意識の兆しとして描かれている。
本作はアクリリック絵具とキャンバスによって制作されている。速乾性と高い発色を特徴とするこの素材は、松本にとって単なる技法上の選択ではない。重ねられた色彩の層は、即興性と制御の緊張関係を孕みながら、画面に独特のリズムをもたらす。筆致は明確な輪郭を拒み、色と色が衝突し、滲み合いながら、ひとつの場を形成していく。
画面の基調を成すのは、乾いた大地を思わせる沈んだ色調である。灰色、褐色、くすんだ土色が層を成し、視覚的な重さと静寂を生み出す。そこに差し込むように配置される鮮烈な色彩——黄色や橙、赤——は、周囲の沈黙を破るかのように輝き、画面全体に緊張と運動をもたらす。この対比は、単なる色彩効果ではなく、存在論的な問いを内包している。
光は中心に安定して留まることなく、拡散し、揺らぎ、時に荒野と溶け合う。そこには確定した救済の物語はなく、むしろ希望が常に不安定な状態にあることが示唆されている。松本は、光を絶対的な善として描くことを避け、それを試行錯誤の過程そのものとして提示しているのである。
構図においても、本作は明確な焦点を持たない。視線は画面を彷徨い、どこにも安住することができない。その不安定さこそが、荒野という主題の本質であり、同時に現代的感覚の反映でもある。観る者は、作品を「理解」するのではなく、作品の中に身を置き、自らの感覚を通して経験することを求められる。
松本陽子の絵画は、自然を描きながらも、自然主義に回収されることはない。荒野は外界の風景であると同時に、精神の内奥であり、光は物理現象である以前に、意識の動きである。その両義性こそが、本作に深い余韻をもたらしている。
《光は荒野の中に輝いている》は、希望を安易に肯定する作品ではない。むしろ、希望が成立するためには、まず荒野を直視しなければならないという、静かな覚悟を内包している。だからこそ、この作品は声高に語ることなく、見る者の内面に長く留まり続ける。
現代において、確かな意味や価値が揺らぐ中で、松本陽子のこの作品は、問いを問いのまま差し出す。その画面に輝く光は、誰かのために用意された答えではなく、それぞれが自らの荒野の中で見出すべき微かな兆しなのである。
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