【感覚】織田一磨‐東京国立近代美術館所蔵

感覚
石版に刻まれた近代の震え
《感覚》と題された一枚のリトグラフは、大正期日本美術が到達したもっとも鋭敏な地点を、静かに、しかし確実に示している。織田一磨によるこの作品は、具体的な物語や再現的な形態をほとんど語らない。にもかかわらず、観る者の内側に直接触れ、色と形が引き起こす微細な震えとして記憶に残る。それは視覚という感覚が、理性や説明を介さずに、どこまで深く人間の内面に届き得るかを問いかける作品である。
織田一磨は、近代日本美術のなかでも特異な軌跡を描いた画家であった。西洋絵画の受容が一気に進んだ20世紀初頭にあって、彼は単なる技法移植にとどまらず、「見ること」そのものの構造を問い直そうとした数少ない作家の一人である。東京美術学校で学びながら、印象派、象徴主義、さらにはフォーヴィスムや初期モダニズムの動向に敏感に反応し、それらを日本的感性のなかで再編成しようと試みた。
《感覚》は、その探究がもっとも純粋なかたちで結晶した作品である。タイトルが示すとおり、ここで主題となっているのは対象ではなく、感覚そのものだ。画面に広がるのは、特定の風景や人物ではなく、色彩の交錯、形態の浮遊、そして空間の揺らぎである。見る者は「何が描かれているのか」を理解する前に、「何かを感じている自分」に気づかされる。
リトグラフという技法の選択は、この作品の性格を決定づけている。石版による平滑な画面は、木版とは異なる柔軟さを持ち、線と面、色と色との関係をきわめて自由に操作することを可能にした。織田はこの特性を最大限に活かし、微妙な色調の重なりや、にじみ、濃淡の移ろいを通じて、視覚の奥行きを構築している。そこには、輪郭によって世界を固定する意志はない。むしろ、形は常に揺れ動き、確定されることを拒む。
色彩は、《感覚》において最も雄弁な要素である。強い対比を見せる部分もあれば、静かに溶け合う箇所もあり、それらが画面全体に緊張と均衡を同時にもたらしている。色は物を説明するために用いられるのではなく、感情や直感の運動そのものとして配置されている。明暗の交錯は、光源を示すためではなく、感覚の高まりや沈静を示唆する。
形態もまた、具象と抽象の境界に留まっている。何かを想起させるようでありながら、決してそれと断定することはできない形の連なりは、観る者の想像力を刺激し、各自の内面に異なる像を立ち上がらせる。ここには、近代美術が共有した「見る者の主体性」という概念が、すでに明確なかたちで表れている。
大正時代という時代背景も、《感覚》を理解する上で欠かせない。急速な近代化、西洋文化の流入、都市生活の変化は、人々の感覚世界を大きく変容させた。秩序や写実に基づく従来の美術表現では捉えきれない新しい感覚が、日常のなかに溢れ始めていた。織田一磨は、そうした変化を主題として語るのではなく、その変化によって生じた「感じ方」そのものを、作品の核心に据えたのである。
モダニズムの影響を受けながらも、《感覚》は決して理論的な実験に終始していない。そこには、理屈よりも先に、個人的で切実な感覚がある。織田は、世界を分解し、再構築するのではなく、世界に触れた瞬間の感覚を、そのまま画面に留めようとしたかのようである。その姿勢は、後の日本の抽象表現や前衛美術に先行するものとして、きわめて示唆的である。
《感覚》は、織田一磨の短い生涯のなかで到達した、ひとつの極点であると同時に、日本美術が「見ること」を再定義し始めた瞬間の記録でもある。そこに描かれているのは、時代の風景ではなく、時代が生み出した感覚の揺らぎである。その静かな震えは、百年を経た現在においてもなお、私たちの視覚と感情に直接触れ続けている。
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