【眼のある風景】靉光‐東京国立近代美術館所蔵

【眼のある風景】靉光‐東京国立近代美術館所蔵

眼のある風景
見ることの深淵へ――視覚が風景を生成する瞬間

靉光が一九三八年に描いた《眼のある風景》は、日本近代美術の中でも特異な輝きを放つ作品である。油彩によるこの一作は、風景画という伝統的ジャンルを踏まえながら、それを根底から揺さぶり、「見る」という行為そのものを主題として画面に定着させている。東京国立近代美術館に所蔵される本作は、靉光の短くも濃密な創作活動の到達点であると同時に、一九三〇年代という不穏な時代の精神を、静かに、しかし鋭く映し出している。

靉光は一九〇九年に京都に生まれ、東京美術学校で西洋画を学んだ。彼の初期作品には写実的な基盤が認められるが、次第に単なる対象の再現に飽き足らず、視覚や空間そのものを問い直す方向へと歩みを進めていく。その背景には、西洋近代美術、とりわけ象徴主義やシュルレアリスムとの接触があったが、彼はそれらを模倣することなく、日本的な感覚と結びつけながら独自の表現へと昇華させた。

一九三〇年代の日本は、社会的にも思想的にも大きな転換期にあった。近代化の進展とともに価値観は揺らぎ、芸術家たちは、何を描くべきか、いかに描くべきかを根本から問われていた。靉光もまた、その渦中にあって、絵画の存在理由を「視覚」という根源的問題に見いだした画家の一人である。《眼のある風景》は、その問いが最も明確なかたちを取った作品である。

画面に描かれているのは、一見すると抽象化された風景である。山や空、地表を思わせる形態が広がる中、その中心に据えられているのが「眼」を想起させる形象である。この眼は、人体の一部としての具体的な眼球ではなく、見るという機能そのものを象徴化した存在として現れる。風景の中に眼があるのか、眼が風景を生み出しているのか――その関係は意図的に曖昧にされ、観る者は否応なく視覚の主体と客体の関係について考えさせられる。

構図は強い求心性を持ち、視線は自然と中央の「眼」に引き寄せられる。しかし同時に、その眼は周囲の形態や色彩と溶け合い、単独で完結する存在ではない。靉光はここで、見る主体が世界から切り離された存在ではなく、世界の一部として風景と相互に浸透し合っていることを示唆しているように見える。風景は見られる対象であると同時に、見る行為によって初めて成立するものなのだ。

色彩は、この作品において極めて重要な役割を担っている。靉光は鮮やかでありながら緊張感を孕んだ色を用い、光と影、明と暗の対比を強調している。その色面は、自然の再現というよりも、視覚に訴えかける力そのものとして配置されている。色は物の属性ではなく、見る者の感覚を揺さぶるエネルギーとして機能し、画面全体に動的な圧力を生み出している。

筆致にも注目すべき点が多い。靉光のタッチは均質ではなく、部分によって厚みや粗さが異なり、画面に触覚的な感覚をもたらしている。これにより、絵画は単なる視覚芸術にとどまらず、身体感覚をも喚起する存在となる。見ることは、単に網膜に像を結ぶ行為ではなく、身体全体で世界と関わる行為であるという認識が、ここには潜んでいる。

《眼のある風景》が投げかける問いは、決して抽象的な理論に終始するものではない。それは、私たちが日常的に当然のように行っている「見る」という行為が、いかに主観的で、構築的なものであるかを静かに示している。風景は外界に自明に存在するのではなく、見る者の意識を通して初めて意味を持つ。その相対性と不確かさが、この作品の根底に流れている。

靉光は、風景画という形式を借りながら、その内部に視覚の哲学を埋め込んだ。《眼のある風景》は、自然を描いた絵画であると同時に、絵画を見る行為そのものを映し返す鏡でもある。そこには、時代の不安や個の意識の揺らぎが、直接的な表現を避けつつ、深く刻み込まれている。

この作品は、靉光という画家の独創性を示すだけでなく、日本近代美術が到達し得た思索の深さをも証している。《眼のある風景》は、見る者に安易な解答を与えない。その代わりに、見ることの根源へと静かに導き、風景と意識の境界が揺らぐ瞬間を体験させるのである。

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