【円山公園・平安神宮】竹内栖鳳‐東京国立博物館所蔵

円山公園・平安神宮
竹内栖鳳──祝祭と静観が交差する近代京都の風景

竹内栖鳳の《円山公園・平安神宮》は、明治という時代が内包していた希望と緊張、そして伝統への深いまなざしを、ひとつの壮大な風景として結晶化させた作品である。二曲一双の画面に展開されるのは、完成間もない平安神宮の堂々たる姿と、古くから花の名所として親しまれてきた円山公園の春景である。人工と自然、新設と伝統、祝祭と静寂――それら相反する要素が、栖鳳の確かな構成力のもとで、ひとつの調和へと導かれている。

本作が制作された明治二十八年は、平安遷都一千百年という大きな節目の年であった。近代国家としての日本が急速に西洋化を進める一方で、古都京都はその歴史的意義をあらためて問い直される局面にあった。平安神宮の創建は、単なる宗教施設の建設ではなく、国家的な記憶の再編であり、日本文化の連続性を視覚的に示す象徴的事業であった。栖鳳は、その記念すべき瞬間を、祝意に満ちた風景画として描き留めている。

左隻に描かれる平安神宮は、完成直後の清新な姿を誇る。広々とした境内に整然と配置された社殿は、平安京の古制を踏まえながらも、明治という新時代の自信を体現しているかのようである。栖鳳は建築の輪郭を正確に捉えつつ、過度な装飾や誇張を避け、落ち着いた色調と穏やかな光の表現によって、その存在感を静かに強調する。そこには、威圧ではなく、持続する威厳が宿っている。

一方、右隻に展開される円山公園の風景は、春の生命感に満ちている。満開の桜が枝を広げ、柔らかな風に揺れるさまは、古来より人々が親しんできた京都の春そのものである。栖鳳の筆致は軽やかで、花弁の重なりや枝の動きが、視線の移ろいとともに自然に伝わってくる。そこには、写実を超えた感覚的なリアリティがあり、見る者は画面の前に立つだけで、ほのかな花の香や人々のざわめきを想像せずにはいられない。

この左右の画面は、単なる対照ではない。平安神宮の建築が示す「制度としての歴史」と、円山公園の桜が体現する「生活の中の歴史」とが、互いに補完し合う関係として配置されているのである。国家的記念事業と庶民の季節感覚は、本来異なる次元に属するものだが、栖鳳はそれらを同一画面に並置することで、近代日本が抱えた二重の時間意識を浮かび上がらせている。

竹内栖鳳は、京都画壇の中核として、日本画の近代化を牽引した存在である。彼は写生を重視し、西洋絵画の観察成果も柔軟に取り入れながら、日本画の表現領域を拡張していった。本作においても、空間構成の明快さや遠近感の処理には、近代的な視覚意識が感じられる。しかしその一方で、自然と建築を包み込む空気感や余白の扱いには、明らかに日本絵画の伝統的感性が息づいている。

《円山公園・平安神宮》が放つ魅力は、その祝祭性にもかかわらず、決して高揚一色ではない点にある。画面全体を支配するのは、むしろ穏やかで澄んだ静けさであり、そこに明治という時代の成熟への願いが読み取れる。急激な変化の中でこそ、変わらぬものを見つめ直す必要がある――栖鳳の風景は、その無言のメッセージを内包している。

今日、本作を前にするとき、私たちは明治の人々が抱いた未来への期待と、過去への敬意とを同時に感じ取ることができる。新たに建てられた神宮と、変わらず咲き続ける桜。その並置は、日本文化が更新と継承の連鎖の中で生きてきたことを、静かに、しかし雄弁に物語っている。《円山公園・平安神宮》は、単なる記念画にとどまらず、近代日本美術が到達した精神的な均衡点を示す、格調高い到達点なのである。

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