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【マルゴ・ベラール】ルノワール‐メトロポリタン美術館所蔵

マルグリット=テレーズ(マルゴ)・ベラール
涙の余韻に宿る親密さ──1879年、ルノワールの少女肖像
1879年に制作された《マルグリット=テレーズ(マルゴ)・ベラール》は、ピエール=オーギュスト・ルノワールの人物画の中でも、とりわけ親密さと感情の繊細さが凝縮された作品である。現在はニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵されているが、その静かな画面には、画家と一家との私的な交流、そして印象派の枠を超えつつあったルノワールの芸術的転機が深く刻み込まれている。
モデルとなったマルゴは、外交官・銀行家であり、芸術の有力な後援者でもあったポール・ベラールの娘である。1878年に始まったルノワールとベラール家との交流は、単なる patronage にとどまらず、画家を家族の一員のように迎え入れる親密な関係へと発展した。ルノワールは彼らの邸宅で長い時間を過ごし、家族の肖像や室内装飾画を次々と手がけた。その環境は、彼にとって制作の場であると同時に、日常の感情を自然なかたちで絵画へと昇華できる、稀有な空間であった。
本作に描かれているのは、当時まだ五歳のマルゴの上半身像である。やや身体を傾け、こちらを見つめる視線には、幼さと同時に、説明しがたい感情の揺らぎが宿っている。赤みを帯びた頬、わずかに開いた唇、潤んだ瞳。それらは作為的な演出ではなく、直前まで続いていた涙の名残を留めているかのようだ。後年伝えられた逸話によれば、この肖像は、不機嫌な家庭教師との授業の後、泣いていたマルゴを慰めるために描かれたという。もしそれが事実であるならば、本作は「記念」のための肖像ではなく、「瞬間の感情」を受け止めるための絵画であったことになる。
こうした背景を踏まえると、画面に漂う静けさは単なる落ち着きではなく、感情が鎮まりつつある刹那の気配として感じ取られる。ルノワールは、子どもの内面を説明的に描写することなく、わずかな表情の変化や視線の角度によって、その心の震えを伝えている。そこには、観察者としての冷静さと、慰め手としての温かさが同時に存在している。
色彩は穏やかで、顔や髪には柔らかな光が満ち、背景にはグレーを含んだ青や淡い茶色が抑制的に配されている。この控えめな背景は、少女の顔立ちを際立たせると同時に、場の空気を静謐なものへと導く。印象派的な軽やかさを残しつつも、色と色の関係は慎重に整えられ、感情の過剰な表出を避ける構成が選ばれている。
筆致に目を向けると、そこには即興性と緻密さの両立が見て取れる。髪の柔らかな流れや、目元に落ちる微細な影には、単なる光の印象以上の造形意識が感じられる。1879年という制作年は、ルノワールが印象派の実験的手法から一歩距離を取り、ラファエロやイングレスに代表される古典的な人物表現へと関心を深めていった時期にあたる。本作は、その過渡期に生まれた、様式的融合の成果である。
ベラール家の子どもたちは、ルノワールにとって繰り返し描くことのできる身近な存在であった。マルゴもまた、成長の過程で何度も画面に登場するが、そこに見られるのは類型化された「子ども像」ではなく、その時々の年齢や感情を映し取った個別の姿である。それらは一家の私的なアルバムのように連なり、画家がこの家族と共有した時間の厚みを物語っている。
《マルグリット=テレーズ(マルゴ)・ベラール》は、小さな肖像でありながら、ルノワール芸術の本質を静かに示している。それは、華やかな祝祭ではなく、日常の中のかすかな感情に寄り添う姿勢であり、絵画が人を慰め、共感を生み出す力への信頼である。涙のあとに描かれたこの少女の視線は、時代を超えて鑑賞者に向けられ、芸術が持つ癒やしの可能性を今なお語り続けている。
画像出所:メトロポリタン美術館
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