【ラ・シャートル伯爵夫人Comtesse de la Châtre (Marie Charlotte Louise Perrette Aglaé Bontemps)】ヴィジェ=ルブランーメトロポリタン美術館所蔵

【ラ・シャートル伯爵夫人Comtesse de la Châtre (Marie Charlotte Louise Perrette Aglaé Bontemps)】ヴィジェ=ルブランーメトロポリタン美術館所蔵

優雅なる逃避の肖像
ヴィジェ=ルブラン《ラ・シャートル伯爵夫人》をめぐる18世紀末の美と崩壊

 1789年、フランス革命の幕が上がろうとしていたその年、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、ひとりの貴族女性を静かに画布の上へと迎え入れた。《ラ・シャートル伯爵夫人》――白いモスリンのドレスをまとい、軽やかな姿勢で佇む女性の肖像は、今日ニューヨークのメトロポリタン美術館に収蔵されている。しかしこの一枚が語る物語は、単なる貴婦人の優雅さにとどまらない。そこには、旧体制の崩壊を前にした美と精神の緊張が、繊細かつ確固として刻まれている。

 モデルとなったマリー=シャルロット=ルイーズ・ペレト・アグラエ・ボンタン、すなわちラ・シャートル伯爵夫人は、宮廷文化の申し子ともいうべき女性であった。ルイ15世の側近を父に持ち、貴族社会のなかで身分と作法を身体化しながら成長した彼女にとって、肖像画とは外見を飾る単なる装置ではなく、自らの階層と道徳性、そして女性としての特質を可視化する媒体であった。一方で画家ヴィジェ=ルブランもまた、王妃マリー・アントワネットに寵愛され、宮廷社会の美学を支えた存在である。画家とモデル――その両者は、同じ世界を共有し、同じ価値観と不安を抱えていた女性同士でもあった。

 本作でまず目を引くのは、伯爵夫人がまとう白いモスリンのドレスである。当時、貴族の衣装といえば絢爛たる絹や宝飾をまとった豪奢な姿が一般的であったが、ここで選ばれたのは素朴で柔らかな薄布。もともと下着や田園風の衣装と考えられていたモスリンは、マリー・アントワネットが好み、自然回帰の象徴として広まったことで、貴族たちの間で新たな洗練の記号となった。ヴィジェ=ルブランはこの“自然な優雅さ”を巧みに画面に取り込み、軽やかに風を孕むようなシルエットの中に、清楚さと知的な気品を共存させる。革命前夜のファッション革命とも称すべきこの新しい感性は、やがて古い価値観が崩れゆく予兆でもあった。

 加えて、この肖像には英国絵画の影響がはっきりと読み取れる。伯爵夫人は軽く肩を落とし、体を斜めに傾け、視線を遠くへ逃がすように佇む。ジョージ・ロムニーやレイノルズに代表される英国肖像画の特徴――自然さと精神性の同居するポーズ――が、本作のリラックスした雰囲気を形成している。当時のフランスの伝統的な肖像画はしばしば厳格で正面性を強調したが、ヴィジェ=ルブランはこの英国風の“内面を語る身体”を積極的に導入し、伯爵夫人の知性と静謐な強さを表現することに成功している。姿勢、衣服、光の柔らかな拡散――そのすべてが物語を紡ぎ、ひとりの女性を時代の象徴へと高めている。

 しかし、この優雅な世界はすでに崩れかけていた。1789年、パリでは蜂起の声が高まり、旧体制の秩序は急速に揺らぎ始める。貴族にとって肖像画は、自身の地位の証であると同時に、時代の暴力から身を守る象徴的な“盾”でもあった。だがその盾は、すぐに無力なものとなる。伯爵夫人は革命の渦中で王党派として国外へ逃れ、ヴィジェ=ルブラン自身もまた、王妃との関係ゆえに危険を感じ、夜陰に紛れて国境を越えていった。ふたりの女性は、同じ文化を愛しながら、同じく亡命者として新たな運命へと投げ出されることになるのである。

 このことを思うと、《ラ・シャートル伯爵夫人》は単なる肖像画を超え、失われゆく世界への挽歌としての響きを帯びる。白いモスリンの透明感、女性の穏やかな眼差し、軽く結ばれた髪の柔らかさ――それらは、もはや帰ることのできない宮廷文化の最後の輝きであるかのように見える。肖像画は、ただ外見を描き留めるだけのものではない。そこには価値観、制度、社会の記憶が封じ込められ、やがて訪れる断絶の前に、かつての世界の“呼吸”そのものを静かに閉じ込めている。 

今日この作品を見つめるとき、伯爵夫人の姿は、過剰な華美を捨ててなお美しさを保とうとする気高さとして、時代を超えて響きを持つ。モスリンの白は、失われゆく理想への純粋な祈りのようでもある。ヴィジェ=ルブランは、優美のための優美ではなく、美による精神の防壁としてこの肖像を描いたのではないだろうか。革命という奔流に抗うすべはなくとも、芸術の中にだけは、崩壊を超えて残る秩序と静謐を託すことができる――画家はそう信じていたのかもしれない。

 《ラ・シャートル伯爵夫人》は、18世紀末の美の結晶であると同時に、その崩壊の瞬間を透過させる歴史のドキュメントでもある。優雅さは逃避であり、逃避はまた一種の抵抗でもある。この絵に漂う静かな気配は、激動の只中に生きた女性たちが抱いた不安と矜持を、二百年を経た現在にまで確かに伝えている。

画像出所:メトロポリタン美術館

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