【鏡を見るジュリー・ルブランJulie Le Brun (1780–1819) Looking in a Mirror】ヴィジェ=ルブランーメトロポリタン美術館所蔵

鏡を見るジュリー・ルブラン
― ヴィジェ=ルブランが描いた母性と芸術のまなざし ―

 1787年、フランス革命を目前に控えた緊張と優雅さが入り混じるパリで、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランは、幼い娘ジュリーを描いた三点の肖像画をサロンに出品した。そのうちの一枚、《鏡を見るジュリー・ルブラン》は、今日ニューヨークのメトロポリタン美術館に所蔵され、母子の親密な瞬間を捉えながら、視覚表現と自我の構造に鋭い問いを投げかける作品として高く評価されている。本作は、単なる子どもの肖像画ではなく、母であり画家であったヴィジェ=ルブランが、自身の創造の核心に位置づけたテーマ――母性、視線、絵画の真実性――を一枚の画布に結晶させた試みである。

 ヴィジェ=ルブランは、18世紀末から19世紀初頭を代表する女性画家として知られ、マリー・アントワネットの公式肖像画家を務めるほどの名声を獲得した。しかし彼女の真価は、宮廷の格式に収まらない、柔らかくも洞察に満ちた人物描写にこそある。特に女性や子どもを描く際、彼女は外見だけでなく内面に宿る静かな情感を繊細に表現し、当時の肖像画に新たな方向性を示した。ジュリーは、その創作において最も身近で、最も重要な存在であった。

 《鏡を見るジュリー・ルブラン》は、画面の中心に娘ジュリーの横顔を描き、その前に置かれた鏡にもう一つの顔――正面を向くジュリーの像――を映し出すという構成を採る。鑑賞者は、一人の少女を二つの方向から同時に見ることになる。横顔は「母の眼差し」を、鏡像は「娘が自身を見つめる視線」を象徴し、ふたつの像がひとつの画面で響き合う。この二重の像は単なる技巧ではなく、当時議論されていた「視覚の哲学」を取り込み、見ることの構造そのものを提示する装置として機能している。

 注目すべきは、鏡像が現実の物理法則に従っていない点である。鏡は像を反転して映すにもかかわらず、絵の中のジュリーはそのままの顔立ちをこちらへ向ける。ヴィジェ=ルブランは、鏡の仕組みを知った上であえてこの“非現実”を採用する。そこには、芸術とは単なる模倣ではなく、現実を再解釈し、理想化し、真実を別の次元で提示する行為であるという明確な意識が読み取れる。

 18世紀美術において、鏡は「視覚」を象徴する寓意の要素としてしばしば用いられた。鏡を持つ女性像は、光と影を読み取る感覚そのものの擬人化である。同時に、鏡は画家自身をも映し返す道具であり、自己観察の象徴でもあった。ヴィジェ=ルブランはこうした伝統的象徴体系を踏まえつつ、そこに母子の私的な情愛を重ね合わせている。つまりジュリーの鏡像は、視覚そのものの寓意であると同時に、母が見守る娘の成長の象徴、さらには画家が自らの芸術的アイデンティティを再確認する“もう一つの鏡”でもある。

 1787年という年は、ヴィジェ=ルブランにとって特別な意味を持っていた。若くして成功を収め、王立アカデミーの正会員となった彼女は、当時32歳。女性に対して家庭に留まることが当然とされた時代において、「母であり画家である」という自身の生き方を公然と提示しようとしていた。サロンに三点ものジュリー像を出品したことは、その意思表示にほかならない。母性を隠すどころか、創造の源泉として誇りをもって示す姿勢は、画壇の慣習に挑む静かな宣言であった。

 画面に漂う柔らかな光と静謐な空気は、親密な家庭の一瞬を切り取っただけのように見える。しかし、後年の母娘の運命を知れば、この絵はより深い響きをもって迫ってくる。革命の勃発により、王党派と見なされたヴィジェ=ルブランはフランスを離れ、長い亡命生活に入る。ジュリーはその旅に同行したが、成長とともに双方の価値観は離れていき、母娘は次第に疎遠となった。《鏡を見るジュリー・ルブラン》に宿る穏やかな幸福感は、のちに失われる関係の前触れとして、儚い余韻を帯びて鑑賞者の心に残る。 

本作は、母と娘の愛情を描くと同時に、視覚のメタファーとして機能する稀有な肖像画である。横顔は「今、この瞬間のジュリー」を、鏡像は「理想化された永遠のジュリー」を表す。鑑賞者はその双方を見つめながら、絵画が現実と理想、時間と記憶の狭間で成立する芸術であることを静かに理解する。鏡に映る顔は、ただの反射ではない。それは、母が描きとどめようとした幸福の記憶であり、画家としての自負であり、そして見る者に向けられた問いそのものだ。

 絵は語りかける。「あなたはいま、誰の姿を見ているのですか?」――ジュリーか、母か、それとも芸術そのものか。ヴィジェ=ルブランは、18世紀の終わりにその問いを放ち、今日に至るまで多くの鑑賞者を静かに魅了し続けている。

画像出所:メトロポリタン美術館

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