【頭部】パブロ・ピカソー国立西洋美術館所蔵

ピカソ晩年のまなざし
性を越境する〈顔〉という問い

20世紀美術の歴史を見渡すとき、「顔」という主題ほど執拗に、そして豊穣に探究されたものはない。その中心に立ち続けた画家こそパブロ・ピカソである。写実の確かさから始まり、キュビスムの解体、そして老年期の即興的な線描へ──ピカソは一生をかけて“顔とは何か”を問う続けた。本稿では、1962年1月9日に描かれた《頭部》を手がかりに、晩年のピカソが到達した「性を超えた顔」の思想と造形を探りたい。

この《頭部》は、同日に連続して制作された4点の素描シリーズの最終作にあたる。画材はクレヨン。筆や刷毛を介さず、画家の手の震えや呼吸までもが紙へ直結する素材である。赤、青、緑、紫が折り重なる線は、色面ではなく時間の痕跡として現れる。ピカソはこの日、即興演奏のごとく1枚、また1枚と“顔”に向き合い、造形の核へと深く潜っていった。

シリーズ冒頭の1点は、長い髪と豊かなまつ毛を備えた明確な女性像である。柔らかな頬の稜線、たわむような色の配置からは、親密さや官能を想わせる気配が漂う。だが、2枚目、3枚目と進むにつれ、女性的なディテールは徐々に削ぎ落とされていく。髪は短く、まつ毛は消え、輪郭は単純な楕円へと近づく。最終作である《頭部》では、ついに性差を示す記号がほぼ完全に消失し、男女のいずれにも属さない中性的な顔が立ち現れる。

この変化は、単なる簡略化でも、スタイル上の抽象の進行でもない。むしろ、ピカソが晩年に抱えていた根源的な問い──「人間を人間たらしめる要素は何か」──への探究の軌跡である。性という属性が剥ぎ取られたとき、顔はなお“個”を語り得るのか。その思索が、クレヨンの素朴な線に収められている。

ピカソは若い頃から人物における性の表象を重視してきた。ブルー・ローズ期の哀感を帯びた女性像、キュビスムの幾何学的に再構成された中性化した顔、そして戦後作品に漂う激情のマスク──そこに描かれる性は常に変容し続ける主題だった。だが1960年代に入る頃、彼は“男”や“女”といった記号に依存しない、より広く深い「人間の相貌」へと向かい始める。1962年の《頭部》は、その転換を告げる象徴的な作品である。

興味深いのは、この試みが晩年を迎えるにつれて一層過激化していく点である。1972年4月13日の3点の素描では、1枚目と2枚目が口髭の濃い明確な男性像であるにもかかわらず、3枚目では髭が塗りつぶされ、髪は長く引かれ、性別記号が再び曖昧化される。もはや“描かれた人物”ではなく、“描く行為そのもの”が前面に押し出されている。ピカソは晩年、筆致の速度や線の震え、色の衝突といった、制作の生々しい瞬間を作品の中心に据えるようになる。性差はその過程で自然と溶け落ち、純粋な造形の核だけが残る。

1962年の《頭部》を見つめていると、その顔は確かに「誰の顔でもない」。だが、それは「空白」ではなく、人間存在の普遍的な輪郭がたゆたっているように見える。性別、年齢、個人性──そうしたカテゴリーから解き放たれた顔は、むしろ人間の根源的な姿を浮かび上がらせる。ピカソが人生の終盤に到達したのは、世界の複雑さを単純化するのではなく、記号を脱ぎ捨てた先にある“人間の本質”を見つめる静かな視線だった。

クレヨンの軽やかな線が、老画家の確信と自由を宿しながら紙上を駆け抜ける。その終点に立ち現れる《頭部》は、ピカソ晩年の思想の核心──性を超え、個を超え、“顔”という永遠の主題をめぐる最も静謐な答え──である。

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