【水鏡】香月泰男ー東京国立近代美術館所蔵

香月泰男《水鏡》——青の沈黙と映らぬ像
満たされた静寂に潜む記憶と不安

1942年、太平洋戦争の渦中に制作された香月泰男の《水鏡》は、外的現実の喧噪とは無縁の、ひとつの沈黙の世界を描き出す。そこにあるのは、壁にかけられたキャンバスと、床に置かれた水槽——垂直と水平の二つの矩形の容器。そしてその中心に広がるのは、深く、満たされた青である。この作品は一見、静物画のような構成をとりながらも、実際には極めて観念的で、詩的な象徴に満ちている。

画面の上方にあるキャンバスは、絵画そのものの象徴である。人間の想像や表現を受け取る「垂直の面」。一方、その下に置かれた水槽は、現実の世界を映し返す「水平の面」としての鏡である。この二つの矩形は、形や大きさがほぼ一致し、互いを映すように呼応している。そこには、香月が絵画と現実、イメージと記憶、見る者と映される者の関係を問い直す、構造的な仕掛けが隠されている。

しかし、決定的なのは——水鏡に「像」が映っていないことである。少年が水面を覗き込んでいるにもかかわらず、その反映は描かれない。ここに《水鏡》の核心がある。水面は何も映さないがゆえに、鑑賞者は自らの姿や記憶をそこに投影してしまう。満たされた青は、物質的には濃密でありながら、意味的には空虚。その「満たされているのに欠けている」状態が、香月の描こうとした人間の存在そのものを象徴している。

香月は幼少期に父を亡くし、母とも離れて暮らした。その孤独な少年時代の経験が、彼の作品に通底する深い静けさと内省的な表現を形づくったといえる。背を向けた人物像、語られない感情、沈黙の空間——それらは香月の内面と分かちがたく結びついている。《水鏡》に登場する少年もまた、観る者に顔を見せない。彼の背中は、未来を担いながらも、その未来を見通せない不安の象徴である。

少年の隣には、枯れかけた植物が静かに置かれている。生命の盛衰、希望と死の対比がここに凝縮されている。若い生命の成長と、枯死へと向かう植物——この対照は、戦時下の緊張と不安、そして個人の喪失感を象徴する。香月は直接的な戦争描写を避けつつも、時代の空気を静謐な象徴へと転化させた。

《水鏡》の青は、単なる自然の色ではない。海のようでもあり、空のようでもありながら、その深みは心理的な暗がりを孕む。青は静けさと悲しみ、平穏と不安を同時に内包する色であり、香月にとってそれは「感情の容器」でもあった。水槽の青が深ければ深いほど、そこに映るものは消え去り、鑑賞者は青の中に沈み込むようにして自らの記憶を探り始める。

この「青の沈黙」は、後年の《シベリア・シリーズ》にも通じる。極限の孤独と向き合った香月が、抑留体験の後に描いた雪と空の白、そして冷たい青。その原点は、《水鏡》にすでに萌芽している。ここで彼は、色を感情の言語として用いる方法を確立しつつあった。

1942年という時代背景を踏まえれば、この作品の意味はさらに複層的になる。日本社会が総動員体制に入り、芸術にも国家的使命が求められた時代にあって、《水鏡》のような内面的で静謐な作品は例外的存在だった。だが、香月は敢えて「沈黙」の形で時代と向き合う。彼にとって絵画とは、現実を喧しく語るものではなく、沈黙を通して人間の根源を見つめる行為だったのだ。

水鏡の表面には、揺らぎも、波紋もない。時間が止まったかのように静まり返っている。しかし、その静けさは決して安らぎではなく、むしろ緊張に満ちている。少年の心の内で波立つもの——それは言葉にならない不安や喪失の感覚だろう。そして、鑑賞者の心にも同じ波紋が生まれる。香月は、描かないことで観る者の想像を働かせ、絵画と観る者の関係を能動的に結び直している。

水鏡とは、古来より未来や真実を映す道具とされてきた。しかし香月の《水鏡》は、未来を映さない。むしろ「何も映らないこと」こそが、この時代の真実であるかのようだ。未来は不透明で、個人の存在は不確か。だが、それでも青はそこにあり、沈黙の中でゆるやかに呼吸している。その青こそ、香月が生涯を通して描き続けた「内なる風景」の原点なのである。

この作品を前にしたとき、私たちは思わず立ち止まり、青の奥を覗き込む。そこに映るのは、少年の顔ではなく、私たち自身の内面である。香月泰男は、《水鏡》という一枚の画面を通して、絵画を「自己と他者のあいだに立つ鏡」として提示した。見ること、映すこと、記憶すること——そのすべてが、この満たされた青の中に静かに沈んでいる。

《水鏡》は、戦時下の孤独を超えて、普遍的な人間の心理を描いた作品である。満たされながらも欠けている、沈黙しながらも語りかける、その矛盾こそが、香月芸術の核心であり、人間の存在の真実なのだ。青は満ち、しかしその中には限りない空虚がひそんでいる。香月はその空虚を見つめ続け、そこに人間の魂の形を見出した。

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