【空港】北脇昇ー東京国立近代美術館所蔵

北脇昇《空港》――静謐なる飛翔の寓意
見立ての詩学と、戦時下に漂う無言のシュルレアリスム

1937年、北脇昇が描いた《空港》は、戦時下の日本におけるシュルレアリスムの到達点として、きわめて独自の位置を占める作品である。油彩・キャンバスによる中型の画面には、人影もなく、音もなく、ただ楓の種子と木片が空間に浮かんでいる。だがその静寂のなかに、詩的想像と時代の不穏さが二重に息づいている。本作は、北脇が追求した「見立て」の美学を通して、自然と人工、現実と夢、平和と戦争といった相反する要素を、ひとつの詩的構造に結晶させたものである。

北脇昇(1901–1944)は詩人・評論家としても活動しながら、絵画を思想の実践として位置づけた稀有な画家であった。彼にとって、絵画とは単なる視覚表現ではなく、思考の詩的形態であった。1930年代半ば、彼はヨーロッパのシュルレアリスムを日本の文化的文脈に翻訳し、夢や無意識を暴力的に露呈させる西欧的手法ではなく、「見立て」という静かな変換の術を軸に据えた。

《空港》の発想は、その「見立て」の核心にある。北脇は楓の種子を飛行機に見立てた。楓の翼果は、二枚の薄い羽根を広げてくるくると回転しながら落下する。その運動と形態が、当時の双発機や複葉機を思わせることから、この詩的な変換が生まれた。種子は生命の運搬者であり、飛行機は人や物を運ぶ人工の機械である。自然の力と人間の技術、生命の連続と破壊の予兆が、この一つの形態の中に重なり合っている。

画面上では、楓の種子=飛行機群が静かに浮遊し、背景には木片が漂う。その木片には節穴があり、北脇はそれを月と見立てた。つまり「木片=雲」「節穴=月」という二重の変換が行われている。これは単に超現実的な視覚遊戯ではなく、和歌や俳諧における「見立て」の伝統を継承するものである。北脇のシュルレアリスムは、無意識の衝動ではなく、意識的な観照と美意識に裏打ちされている。異質なものの結合を通じて世界を再詩化する、静謐な日本的超現実主義と言える。

だが、この作品を単なる幻想絵画として見ることはできない。1937年は日中戦争が勃発した年であり、空はもはや詩的象徴ではなく、軍事的支配の象徴でもあった。北脇の「空港」という題名には、旅立ちや自由の響きと同時に、軍用機の離陸を想起させる不穏な気配が潜んでいる。種子=飛行機の群れは、無害な自然のモチーフでありながら、戦争のイメージを不可避に喚起する。彼は戦争を描かずに戦時を描く——それが《空港》における最も精緻な寓意である。

北脇は戦争という現実を直接描写することを避け、象徴と転位によってその影を滲ませた。種子は生命の原型でありながら、同時に爆弾のメタファーにも転じうる。木片の月は、廃材から覗く一筋の光でもあり、文明の崩壊を照らす残照でもある。こうした二重的読みを誘う構成こそ、北脇の詩学的リアリズムの真骨頂である。

《空港》の空間構成は極めて平面的で、透視的な奥行きを意図的に排している。上空を漂うモチーフ群は、浮遊する記号として等価に配置され、画面には時間の流れも運動の方向も存在しない。その静止した世界は、まるで夢の断片が静かに並置されたようである。現実感の欠如は、逆説的に時代の停滞と不安を象徴している。空が広がるにもかかわらず、そこには風も音もない。観者は、無音の空間に取り残されるような感覚を覚える。

色彩はくすんだ青や灰褐色を基調とし、部分的に淡い黄や白が浮かび上がる。北脇の選ぶ色は常に湿度を欠き、乾いた質感を保つ。それは現実の風景を写すためではなく、感情の熱を抑制し、詩的な距離を確保するための制御である。この冷静な色彩感覚が、作品全体に漂う透明な静けさを生み出している。

《空港》には人間の姿が一切登場しない。だが、その不在こそが、戦時下の不安と孤独を象徴している。飛行機(=種子)を操る者はおらず、空を見上げる者もいない。すべてが自律的に、あるいは無目的に漂う。この「無人性」は、北脇が意識的に導入した表現であり、戦争の匿名的な暴力——「誰が攻撃するのか分からない恐怖」——を象徴的に描き出している。

1930年代後半の日本では、芸術表現に対する国家的圧力が強まり、前衛的活動はしだいに制限を受けた。北脇もまた、戦時下で活動の場を失い、1944年に早逝する。《空港》は、その抑圧の時代にあってなお、自由な想像力を守ろうとした画家の静かな抵抗の記録である。彼は爆撃機ではなく、楓の種子を飛ばすことで、詩的な「飛翔」の可能性を描いた。

この作品において、シュルレアリスムは決して逃避ではない。それは、現実の重圧に対して詩の力で応答する方法であり、夢を媒介として現実の裂け目を可視化する批評的手段であった。北脇は、自然の中の微細な形に想像力を見いだし、それを社会的現実の寓意へと転位させた。彼の「見立て」は、単なる遊戯ではなく、時代を生き抜くための倫理的実践だったのである。

《空港》は、夢と現実、生命と機械、平和と戦争の境界を行き来する、戦時下の詩的ドキュメントである。楓の種子が静かに飛翔するその瞬間、私たちは自然の秩序と人間の狂気のあいだに揺らぐ。北脇昇の絵画は、そのわずかな空隙に、見ることと想うことの自由を残した。沈黙の空に漂う彼の種子は、今もなお、私たちの想像力の中で旋回を続けている。

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