【モンマルトル裏】荻須高徳ー文部省管理换

静謐の都市を歩く――荻須高徳《モンマルトル裏》に見る「裏」の美学

荻須高徳の《モンマルトル裏》(1940年)は、都市の静けさと人間の気配が織りなす、稀有な緊張を湛えた風景画である。画家はこの小品において、観光地としての華やかな「表」ではなく、その陰に潜む「裏」を描いた。そこには、芸術と生活、記憶と現実、希望と疲弊が交錯する都市のもうひとつの顔が静かに刻まれている。

モンマルトルといえば、サクレ・クール寺院の白い円蓋、坂道に並ぶカフェや画家たちのアトリエを思い浮かべる。しかし荻須が描くのは、そうした記号的な風景ではない。彼の視線は、坂の裏手にある小径や石畳の陰、洗濯物の影や剥落した壁面に注がれる。そこに映るのは、観光都市の華やかさの背後で息づく生活の層――すなわち、「生きられた都市」のリアリティである。

1940年という制作年は、世界が再び戦火へと傾きつつあった時代であり、フランスもドイツ軍の脅威に晒されていた。荻須が描くこの「裏」の風景には、そうした時代の不安と緊張が微かに滲んでいる。街は穏やかに見えるが、その静けさは嵐の前の沈黙にも似ている。華やかな表層を離れ、彼が選んだのは、戦時の影を孕みながらも、なお日常を保ち続ける場所だった。

構図において、荻須は遠近法を厳密に操りつつも、それを過度に誇張することはない。通りや屋根、階段の線は正確に引かれながら、筆致の柔らかな揺らぎが無機的な空間を拒む。均整の取れた都市の秩序の中に、わずかな不均衡が呼吸のように流れ、そこに人の生活の気配が宿る。画面の奥へと延びる路地は、観者の視線を静かに導きつつ、「その先に何があるのか」を暗示する。だがその「先」は描かれない。観者は想像の中で歩みを進めるほかない。そこに荻須の「見る構造」がある。

色彩は中間色を基調とし、グレー、オリーブグリーン、褐色、淡いブルーなどが柔らかく調和する。建物と空、壁と石畳の境界は明瞭でありながら、筆致の揺れによって空気の層が生まれている。鮮やかさではなく、沈んだ透明感が画面を満たす。陽光が壁を撫で、影が長く伸びる――そんな時間の流れを感じさせるトーンの調整が巧みだ。荻須の色彩は、単に視覚的な美ではなく、「都市の記憶の温度」を伝える役割を果たしている。

この作品における「裏」は、単なる空間的対義語ではない。むしろ「表」が見せないもの――時間の蓄積、生活の残響、そして歴史の沈殿――を照らし出す視線である。裏通りには、観光客が知らない都市の呼吸がある。荻須はその「息づかい」を描くことで、モンマルトルという場所を人間的な記憶の場へと変換した。

画面の隅に、控えめに人物や動物の影が描かれている可能性がある。それらは決して主題ではないが、存在することで「この街は誰かが生きている場所だ」という確信をもたらす。人影がほとんど見えないにもかかわらず、画面には不思議な温度がある。それは、画家のまなざしが「不在の中の存在」を見出す力を持っていたことの証である。

荻須の筆致には、都市への愛着と距離感が共存する。都市を理想化せず、同時に拒絶もしない。観者がその空間に「入り込む」ことを許しつつ、決して「支配」させない構図が保たれている。これは、都市を見ること、あるいは他者を見ることに対する倫理的態度でもある。モンマルトルの裏路地を描くことは、華やかな文化の表層に抗し、見えにくいものを見つめ直す行為であった。

また、この作品には「時間」というもう一つの層が流れている。石壁の剥落、古びた扉、くすんだ色調――それらは単なる物理的老朽ではなく、「過ぎ去った時間が可視化された痕跡」である。荻須は筆を通じて、風景の中に潜む記憶の層を掘り起こした。そこにはユトリロ的な郷愁もあるが、より抑制された詩情が支配している。彼のモンマルトルは、ロマンティックな理想郷ではなく、現実の生活が積み重ねた「静かな詩」である。

現代の視点から見ると、《モンマルトル裏》は、都市を見ることそのものへの再考を促す。SNSや広告が作り出す「表の風景」が氾濫する現代において、荻須の「裏」への視線は、私たちが見落とした都市の記憶を呼び戻す契機となる。表象の表面ではなく、そこからこぼれ落ちるもの――影、余白、沈黙――にこそ、都市の真実が潜んでいるのだ。

「裏」とは、忘れられたものを見つめる場所。荻須はその場所に立ち、都市の詩を記録した。《モンマルトル裏》は、見ることの倫理を問いかける静かな絵画である。観者はその路地を歩くように、画面の奥へと導かれ、ふと立ち止まり、時間の音を聞く。そこにあるのは、風景という名の祈りであり、沈黙の中に息づく都市の記憶なのだ。

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