【塊】藤川栄子ー東京国立近代美術館

凝縮する存在——藤川栄子《塊》にみる形と精神の臨界点
1959年、日本抽象絵画の転換点に立ち現れた“見る”と“感じる”の境界
1959年、藤川栄子が制作した《塊》は、東京国立近代美術館に収蔵される彼女の代表作であり、日本戦後美術史のなかでも特異な輝きを放つ抽象作品である。題名に掲げられた「塊」という語は、単なる物質の集合体を指すにとどまらない。それは、形態が崩れ、再構築され、最終的に純粋なエネルギーとして凝縮された「存在そのもの」の象徴である。藤川の画面において、塊とは“モノ”である以前に、“力”であり、“精神”であり、そして“時間”の結晶でもある。
1950年代の日本美術は、戦後復興を経て国際的な潮流との接続を強め、具象から抽象への移行が急速に進んだ時期であった。具体美術協会の前衛的試みやアンフォルメルの影響は、絵画における物質性と自発性を重視する新しい感覚を広めた。しかし藤川は、そうした時代のうねりに安易に同調することなく、自らの内部に築いたキュビスム的構築感覚を核としながら、より静謐で内省的な抽象の可能性を探った。《塊》は、その過程の到達点に位置する作品であり、解体と凝縮、理性と感情、形と空間がせめぎ合う緊張の場である。
画面全体を覆うのは、やや温かみを帯びた黄色である。この黄色は単なる背景色ではなく、絵画空間そのものを満たす「呼吸する空気」として存在している。そこに浮かぶ黒い形体は、不定形でありながら確かな重心を持ち、それぞれが独自の“場”を形成している。黒と黄色という強烈な対比は、一見して静と動、光と闇の対峙のように見えるが、じっと見つめるうちにそれが相互に浸透し合い、緊密な共振関係を築いていることに気づく。藤川にとって、形とは孤立したものではなく、空間と絶えず呼応し続ける有機的な存在なのだ。
藤川の筆致には、キュビスムの分析的構築精神と、1950年代末の抽象表現主義に通じる物質的厚みの双方が宿る。黒い形体の表面には、絵具の盛り上がりが光を受け、微細な陰影を生む。その陰影は、形態の輪郭を不安定にしながら、周囲の黄色い空間に滲み出していく。まるで形体そのものが発光しているかのように、黒が空間の内部へと吸い込まれ、黄色がその周囲を包み込みながら反射する。このような視覚的循環が、画面に独特の緊張と静謐をもたらしている。
ここにおける「塊」は、物理的存在というよりも、精神的なエネルギーの凝集体である。キュビスムが行った形態の分解が理知的であったのに対し、藤川の抽象はその逆方向——形態の再統合と集中——を目指している。すなわち、分解された要素が再び“ひとつの力”として立ち上がる瞬間を描こうとする意志である。そのため、画面には「重さ」と「気配」が同居する。形がそこにあるというより、形が“そこに生まれつつある”ような生成の気配が、作品全体を貫いている。
1959年という時代背景を考えると、この作品の静けさはむしろ異例である。アンフォルメル的な激しさや偶然性がもてはやされた時期に、藤川はあくまで構築的な均衡を保ちつつ、抽象の内側に“感情の核”を探ろうとした。その態度は、外的な爆発ではなく、内的な圧縮としての表現に向かう。ゆえに《塊》には、叫びではなく「沈黙のエネルギー」が漂う。この沈黙こそ、彼女の抽象が他の同時代作家と決定的に異なる点である。
画面を支配する黄色の空間は、背景ではなく主題の一部である。筆触による微妙な濃淡や絵肌の変化が、観者の視線を画面の奥へと導く。黄色は光の象徴でありながら、どこか温度を感じさせる物質でもある。その温もりが黒い形体を包み、溶かし、同時に押し返す。この呼吸のような往復運動が、作品に生命を与えている。藤川の絵画における空間とは、単に形が配置される「場」ではなく、形が「生きるための環境」であり、存在と非存在のあわいを照らす媒体なのだ。
藤川は《塊》の後、1960年代に入ると再び具象的要素を画面に呼び戻していく。しかし、それは単なる回帰ではない。《塊》で培われた抽象的構造とマチエールの経験が、以後の作品においても確固たる骨格として機能している。抽象と具象は彼女にとって対立概念ではなく、表現の振幅を生み出す両極であった。だからこそ、《塊》は彼女の全画業を貫く軸として読み解かれるべき作品なのである。
藤川栄子《塊》を前にしたとき、観者はまず色と形の強いコントラストに惹きつけられる。だが、見続けるうちに、そこに潜む微細な振動や、色彩と形態の相互作用が静かに浮かび上がってくる。黒と黄色のあいだを流れる目に見えぬ力は、まるで時間そのものが画面の中で凝縮されているかのようだ。その圧縮された時間の感覚こそ、藤川が「塊」という言葉に込めた真意——形を超えた“存在の密度”——である。
藤川の抽象期は短命であったが、その濃度は驚くほど高い。《塊》は、戦後日本の抽象表現における構築性と物質性のバランスが、最も純粋な形で結晶した作品のひとつである。そして、その静かなエネルギーは今なお観者に語りかける。見る者を沈黙へと導きながら、内奥で確かな振動を響かせ続ける——それが、《塊》という名の永遠の“存在”なのだ。
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