【秋】桂ゆきー東京国立近代美術館所蔵

軽やかなる抵抗の絵画――桂ゆき《秋》にみる自由と遊戯の精神
抽象と具象のはざまで揺れる、戦後前衛美術における女性画家の独立精神

1955年に描かれた桂ゆきの《秋》は、戦後日本美術の中でもひときわ異彩を放つ作品である。明るく奔放な筆致と、軽やかなユーモアを帯びた造形感覚は、単なる抽象画の枠を超え、戦後の混沌を生きた画家の精神の自由を映し出している。桂は、戦前に洋画を学びながらも、その伝統的枠組みに安住せず、戦後の新しい空気の中で「自らの感覚を信じて描く」という根源的な姿勢を貫いた。その作品は、戦後前衛の熱気に呼応しながらも、どの運動にも完全には属さない独立した歩みの証であり、特に《秋》はその到達点と呼ぶにふさわしい。

桂の画面にまず目を奪うのは、形態の多様さである。そこには葉や果実、枝といった自然の断片を思わせる形が浮遊しながら散りばめられ、具象と抽象のあわいに漂っている。色彩は赤や黄、緑などの鮮やかさで満たされ、しかしそれらは自然の色を写し取ったものではなく、桂自身の感覚に従って響き合うように配置されている。筆触は滲み、重なり、流れ、まるで風に舞う落葉のようにリズミカルだ。その構成は偶然性と即興性に満ちており、そこには「描くこと」そのものの楽しさと、形式を越える自由の息吹がある。

この作品の魅力は、明快なモティーフを持ちながらも、観者の想像力を無限に喚起する点にある。題名「秋」は単なる季節の指示ではなく、観る者の中に潜む記憶や感覚を引き出すための扉である。桂は特定の風景を再現するのではなく、「秋」という言葉が喚起するイメージの断片を、色と形の遊戯として画面上に解き放っている。結果として生まれるのは、風景の再現ではなく、感覚そのものの可視化であり、抽象と具象のはざまに生きる桂の独自の表現世界である。

このような制作態度は、1950年代半ばの日本美術の動向と呼応している。具体美術協会の活動や読売アンデパンダン展の隆盛によって、既成の権威や形式を超える「前衛」の波が押し寄せていた時代、桂はその中心にありながらも、あくまで自らの内的感覚を起点に絵画を探究した。彼女は政治的主張や理論的体系には寄らず、むしろ「遊び」と「ユーモア」によって権威をずらし、自由を獲得していく。その姿勢は、男性中心的な戦後美術の文脈の中で異彩を放つものであり、「女性画家」というカテゴリーを軽やかに超えていた。

桂の色彩感覚は、しばしば「明るさ」と「装飾性」という言葉で語られる。だがその軽やかさは単なる美的趣味ではなく、既存の重苦しい権威への批評として機能している。《秋》における色の奔放な響き合いは、アメリカ抽象表現主義のような激情的な表現とは異なり、むしろ感覚の愉快さと柔軟さを讃える。それは「女性的な柔らかさ」として片づけられるべきものではなく、社会が押し付ける「女性らしさ」を逆手に取る軽妙な戦略である。桂は、笑いと遊びを通して制度的な美術観を攪乱し、絵画をもっと自由で開かれたものへと導いた。

筆致にもまた、桂の思想が宿る。即興的で、部分的には偶然に任せられたような線や色の重なり。それは「描く主体」が完全に支配するのではなく、絵具という物質との対話を通して生成されるものである。その関係性の中に、桂の「自然への眼差し」がある。風に揺れる葉のように、絵具の流れを受け入れる柔らかさ。そこに、戦後という時代の不安や破壊を超えた、生命への肯定が感じられる。《秋》は、破壊の後の再生の絵画であり、「描くこと=生きること」という実感の結晶でもある。

当時の日本美術界において、女性がこのように自由に表現することは決して容易ではなかった。多くの女性画家が「抒情的」「家庭的」といったラベルで語られる中で、桂はそれらの枠組みを軽やかに逸脱する。彼女の作品にあるのは、性別や社会的役割に規定されない個の感覚である。その自由さは、フェミニズム以前のフェミニズムとも言える静かな抵抗であり、制度に対する笑いの美学でもある。《秋》はその象徴的な表現として、ジェンダーの枠を越えた「人間としての感覚の自由」を提示している。

今日、桂ゆきの作品は改めて注目されつつある。戦後前衛美術史の中で彼女は長らく「周縁」に置かれてきたが、その独自の視点と批評精神は、現代のアートシーンに通じる普遍性を持っている。《秋》がいまなお新鮮に見えるのは、それが形式や運動ではなく、「自由に感じ、自由に描くこと」そのものを体現しているからだ。桂の筆は、社会の規範を声高に否定するのではなく、静かにずらし、笑いながら超えていく。その姿勢こそ、現代においてもなお、真の前衛として輝きを放っている。

桂ゆきの《秋》は、単なる季節の表現を超えて、「自由とは何か」「美術とはどこまで個人的であり得るのか」という根源的な問いを投げかけている。筆の動き、色の響き、形の遊び。それらはすべて、戦後の日本で「もう一度生きること」を選んだ人間の、静かで力強い宣言である。抽象と具象のあいだに揺れながら、ユーモアと批評を手にした桂の絵画は、いまもなお観者に微笑みかけ、問い続けている。「あなたにとっての自由とは何か」と。

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